
故郷に帰ってきて、はや2年、山登りを再開した。
そんなこともあって山登りの本をいくつか読む。その中に幸せについて考えさせる、印象的な一文があった。
「今持てる能力のありったけを発揮できるときほど、人間にとって幸せなことがあるだろうか。日常社会のなかでは、存分に知力体力を解放する機会もなく鬱々としている自己が、こんなささやかなサバイバルの瞬間に息を吹き返す」
(鶴岡由紀子『ばりこの「秋田の山」無茶修行』無明舎出版、2018年)
登山が若い時も年を取った時も楽しいのは、自分の知力体力の限りを尽くすことができるからだろう。そしてこれは仕事にも通じるものである。
私で言えば、難しい話を分かりやすくリアルな場面でグイグイ話している時に、登山と似たような幸せを感じる。強いて言えば、ゾーンに入ったような感覚がある。
またそれとは反対に、苦手なことにリソースが割かれて、自分の得意な能力を十分に発揮できないときには、鬱々として疲れも残る。
ここからさきは私の妄想ではあるが、
自分のポテンシャルをフルに発揮することに喜びを感じることは、ある程度、自然の理によるものではないのだろうか。
チーターであれば駆けて獲物を追うことで、ワシであれば獲物めがけて急降下することで、生存確率も高まるだろう。
チーターやワシが、水の中に潜ったり、地面を這ったりしようとしないのは、それが生き物としての理にかなっていないからだろう。
では翻って、私はどうなのだろうか。
何を青臭いことを、と言われるかもしれないが、私は私らしく生きていきたい。
ヒト以前の、一つの生き物として。






