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時間つぶしの高級食パン
人より体力がなく、人より欲望が強い私はいろいろな縛りが多い。
人並みのメンタルも体力もないのに、人以上にあれこれやろうとするのでやたらと疲弊し浪費し物理的にも精神的にも動けなくなってしまうことがあるので、食事や買物、行動にいろいろ縛りをかけて生きている。
買い物で言えば、コンビニは使用しない、500mlのペットボトルは買わない、行動で言えば夕方以降はスマートフォンやパソコンを開かない。
勝手にルールを作るのはいいけど、時間を持て余したときなどちょっと困る。先日は仕事が終わって子供の剣道教室に迎えに行こうとしたのだけれども、寒い道場で待ち続けるのもいまいち気が乗らない。かといってスマホやコンビニで時間は潰せない。
さてどうしようと思い、うろうろと富山駅裏を歩いていると、ふとあるカフェで高級食パンを入荷したとの張り紙があった。
一斤500円のレーズンパン。ちょっと迷ったが、ケーキ一つ位の値段でパン一斤だったら悪くはないかと思い買ってみた。
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美味しかったです。
https://imizuportal.wordpress.com/2017/01/30/five/
パンをがっつく娘とそれを見守る父親の倫理
次の朝、カリッと焼いて、歩き始めたばかりの娘に与えると、むしゃむしゃもぐもぐとがっついた。
秋田の長野のハーフのせいか、どうにもこうにも田舎臭い顔立ちだ。むしゃむしゃと必死に食べるその様子は、中世ドイツの貧窮した農民の赤ん坊を思わせる。
歴史の本を呼んでいるといろんな役得があるが、その一つに今の時代もそんなに悪くはないなと思えることがある。
政権が変わるたびに大量の人殺しが発生するでもなく、余程のことがなければ、少なくとも昔と違って餓死することもない。
しかしながらあたかも飢えた鬼っ子のようにがっつく娘の姿を見て、ふと雷が落ちたように
「正しいこととは、生き延びることだ」
と思った。
倫理と生存、恒常性の維持
亜人間である私は人間が不思議で不思議でしょうがない。
本を読むのも脳のことを勉強するのも、全ては不思議でしょうがない人間のことを知るためだ。
人間ってなんだろうと考えていくと、必ず最後に行き着くのは倫理になる。
なぜヒトは殺し合うのか、愛し合うのか、なぜ善悪を巡って夢中になるのか、そもそも善悪とはなにか。
そんなこんなで一年の内丸一週間くらいの時間は倫理のことを考えている。「正しい」とはなんなのか。
パンにがっつく娘を見て、本能的に「生き延びることは正しい」と感じた。
長い長い時間をかけて私達は、田畑を耕し、水路を整え、農機を開発し、流通機構を整備して、パンを容易に食べられるようになった。
大量生産だ、添加物だと言われようが、おそらくそれは飢えないため、より安全確実に生き延びるためという文脈でなされてきた何かのはずで、決して悪ではない。
世の中は生き延びるため、我が子を生き延びさせようとするその思いで、モノや仕組みを整えてきたはずだ。
我が子を生き延びさせるためには、襲いかかってくるようなものがいれば容赦なく私は殺すかもしれないが、それは私にとっての善だ。
家族が生き延びるためには意に染まない仕事をするかもしれない。それにしても、それも善だ。生き延びようとする衝動、そこにおそらく本質的な善がある。
ただ問題はどこまでを「私」と捉えるかだろう。
家族や国や職業と私
もし「私」を個体としての私と取るならば、私が生き延びるため、正義の為に取る行動というのはただの荒くれものだろう。
しかしながら「私」を「自分の家族」まで拡大すれば、少なくとも身内に対しては荒くれ者ではないだろうし、
それを「自分の職種」、「自分の国」まで広げれば、少なくともその範囲の中では良識あるものとして振る舞えるだろう。
ただ問題はある範囲の中の倫理というのは、それを大きく囲む範囲の中の倫理とは一致しないことが多いということだ。
ある職種が生き延びるための倫理というのは、必ずしもその上位の枠に当たる国家の倫理と合致しないことがある。
ある国家が生き延びようとしてとる「倫理的」行動は、国際社会や大きな地域を舞台にして考えた場合「悪」でしかないことがある。
しかしながらベースにあるのは「生き延びようとする衝動」でもある。
恒常性の維持と動的平衡としての倫理
私は生き物だから「生き延びる」という言葉が妥当だけれども、なんらかの職種や国家というのは生き物ではない。しかしながら新陳代謝をしながら「変わりながら変わらない」というのは生き物と似ている。
こういった「変わりながらも変わらない」というのは動的平衡と呼ばれ、生物が生物であるための必要要件とも考えられている。
カラダで言えば、恒常性を維持するためにいろんなホルモンが出て、血圧なり体温なりが一定の幅で保たれている。
カラダは恒常性を維持するために異物が来たら攻撃をする。
私は恒常性を維持するために、扁桃体を活動させ、不安を感じ時に暴力的にもなる。
私が所属する業界は恒常性を維持するために様々な制度を作り、そうでないものを排除する。
業界が所属する国家は、恒常性を維持するために、財源確保しようと業界の権益を削ろうとする。
この国家が所属する国際社会は、恒常性を維持するために現在のスキームから外れた行動をする国家を制裁する。
すべての行動はあるレベルでは善であり、それは恒常性を維持しようとする働きから生じている。
「私」とはなにか?
私とはなにかということもよく考える。これも考えれば考えるほど分からない。
私というのは私の思考なのか?
もしそうだとしたらこの思考というのは、過去の無数の思考が脳の中で交差しているだけで私のオリジナルではない。
人生は一幕の芝居という言葉もあるけれど、芝居と言ったって役者がいれば芝居が成り立つわけではない。
舞台があって、裏方さんがいて、照明係や観客、その他諸々のものがあって初めて舞台になるわけで、その意味で私という現象は個体としての私一人に還元できない。
私を私として成立させているバックグラウンドまで含めるのなら、私はどこまで私なんだろう、家族か、富山市か、国家か、世界か、ここに至るまでの世界の出来事全体かなどと朝の電車を待ちながらモヤモヤと考えていたら、
ふと私は世界で世界は私なのだという感覚が降りてきた。
その刹那、一切の不安や心配、怒りが消えて光りに包まれるような妙な感覚に襲撃された。
ほんの一瞬、一瞬なのだけれども、なにかを悟るのってこんな感じなのかなと思ったりもした。
なにが正しいのかはわからない。
地に足のついてない私は何者でもないし、何者にもなりたくない。
だからこそ融通無碍に倫理的になれるということもあるのかなと思いました。