
目次
はじめに
私たちは日常の中で、さまざまな信念を当たり前に抱きながら暮らしています。「あの人はきっと自分の味方だろう」「この方法なら成功できそうだ」――こうした大小の信念は、人生を進める上で必要不可欠な羅針盤です。けれども、その信念が誤った方向へ傾いてしまうことは珍しくありません。ときに人は、ありもしない陰謀を疑い、偶然の一致から不可思議な運命を読み取り、あるいは取り返しのつかない“思い込み”に陥ってしまうのです。
「なぜ人は誤った信念を抱くのだろう?」――この問いは、「人間とは何か?」を深く見つめるうえでも重要です。ここでは、脳科学の視点から“信じる心”を紐解いてみましょう。そのキーワードとなるのが「予測符号化理論」、そして脳内の化学物質「ドーパミン」です。
予測符号化理論――脳は“予測の達人”
私たちの脳は常に外界から情報を受け取っています。しかし、五感から流れ込むデータだけを処理しているわけではありません。脳は自ら“予測”を立て、それを実際の感覚入力と比べながら更新しているのです。これが「予測符号化理論」です。脳には、今起きていることを単純に“受信”するだけではなく、「次に何が起こりそうか」を先回りして予想するメカニズムがある、という見方ですね。

引用:消費者はなぜ決断を先延ばしにするのか、最新脳科学から推論する対策とは?|Agenda Note
ここで重要なのが、「誤差」という概念。脳は予測と現実のズレを見つけると、その“誤差”を使って予測を修正します。たとえば、犬が急に吠えてきたとき「大丈夫だろう」と楽観的に構えていた人は、「あれ? 思ったより危険だ」と誤差を感じ、信念を修正するわけです。このような“誤差によるアップデート”が、私たちの学習や世界観の形成を支えています。
ドーパミン――誤差を教えてくれる化学物質
では、その誤差のシグナルをどのように脳が扱っているのか。ここで登場するのが「ドーパミン」という神経伝達物質です。昔は「快楽ホルモン」と呼ばれ、気分の高揚や報酬感に関係するものとして知られてきました。しかし近年の研究では、「予想と結果のズレ」を符号化する役割、いわゆる「報酬予測誤差」のシグナルとしてドーパミンが動いていることがわかっています。

ドーパミン神経系
より広い視点でみると、ドーパミンは私たちが何か新しい出来事に直面した際、「その出来事をどれだけ重視すべきか?」を調整する働きも持つと考えられます。些細な誤差は無視してもいいかもしれませんが、重大な誤差なら真っ先に学習しなければいけません。こうしてドーパミンは、脳が“信念を更新するべきか否か”を判断する指針を与えているのです。
誤信念が生まれるとき――ドーパミンの役割
通常ならば、誤差が適切にキャッチされて信念は更新されるはずです。ところが何らかの理由でこの機能が乱れると、事態は一変します。たとえば、ドーパミンの分泌が過剰になり、些細な誤差にまで「これは大問題だ!」と過剰な意味づけ(セイリエンス付与)をしてしまうと、本来は無関係な出来事を「自分へのメッセージ」と勘違いしてしまいます。逆にドーパミンがうまく機能せず、必要な誤差を見逃すと、間違った思い込みを改めるチャンスを失ってしまいます。
こうした状態は極端に進むと、“被害妄想”や“陰謀論”といった病的な信念につながります。統合失調症という病気では、ドーパミンの神経活動が一部で過剰になり、まさにありふれた情報が過剰に意味づけされる「異常なセイリエンス仮説」が有力視されています。私たちが「もしかして…」と感じる程度の違和感を、脳内では大問題として捉え、誤った学習を重ねてしまうわけです。
遺伝子多型(遺伝子の個人差)と“信じ込みやすさ”
人によって「思い込みやすい」「疑い深い」「すぐ意見を変える」「なかなか変えられない」など、性格や行動パターンが異なるのはなぜでしょう? その一端には、ドーパミン機能を左右する遺伝子の差があると考えられています。
ここでいう「遺伝子多型」とは、“同じ種類の遺伝子でも少しだけ配列が違う形”のことです。たとえば同じドーパミン受容体をつくる遺伝子でも、人によって配列がほんのわずかに違い、結果としてドーパミンをどれだけ受け取るかが変わってきます。こうした微妙な個人差が、行動や認知スタイルに影響すると考えられるのです。

SNP(スニップ:1塩基多型)とは|初めての遺伝子検査
たとえば、ドーパミンD2受容体(DRD2)やカテコール-O-メチルトランスフェラーゼ(COMT)の遺伝子多型によって、ドーパミンの放出や再取り込みが微妙に異なり、その個人差が“学習や信念の形成スタイル”に影響を与える可能性が指摘されています。もちろん、遺伝だけで人間の“信じる心”は決まらないことは言うまでもありません。育ってきた環境や日々の経験、人間関係など、多くの要因が交差して複雑なパズルを形作ります。それでも、脳のしくみと遺伝子を知ることは、「自分の思い込み」の正体を見つめ直す手がかりになってくれるでしょう。
「人間とは何か?」――脳と信念からの一視点
私たちが抱く信念は、単に“頭の中”だけにあるものではありません。心の奥深くから湧き上がる確信や不安、あるいは社会的なルールや文化的な文脈が入り混じって、人間という存在を形作っています。そして、その基盤には目に見えない神経伝達物質のダイナミックなやり取りがある。まるで脳というシステムは、人間を“予測と修正”の絶え間ないループの中に生かしているかのようです。
こう考えていくと、「人間とは予測し、学習し、信じる生き物だ」というイメージが浮かび上がってきます。そこには誤りが入りこむ余地も大きい。私たちは常に外界を正確に捉えているわけではなく、むしろ“限られた情報”をもとに必死に推測しながら進んでいるのです。その過程で生じる誤った信念も、実は脳の学習機構の副産物とも言えるでしょう。
しかし、誤信念を防ぐためにはどうしたらよいのでしょうか。完全に防ぐのは難しいかもしれませんが、自分の認知が万能ではないことを知り、環境からのフィードバックに開かれた心を持つことが大切です。「いま、私の脳は何を予測しているんだろう?」と客観視し、“誤差”を積極的に受け止める――。この姿勢こそが、思い込みや妄想から少し距離を置き、自分らしい“信念”を築き直す道につながるのではないでしょうか。
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