
目次
はじめに
もし誰かに「あなたはなぜ自分の信念を信じているのですか?」と尋ねられたら、なんと答えるでしょう。「それは本当だから?」あるいは「ずっとそう思っているから」――。でも、本当にそれだけで十分でしょうか。実は脳科学によれば、“信じる”という行為は、目に見えないレベルでの激しい神経活動に支えられています。そこには、ニューロン同士のつながり(シナプス)を変化させる「神経可塑性」が深く関わっているのです。
神経可塑性と“私たちの地図”
脳のニューロンは、お互いを結ぶシナプスを通じて信号をやり取りします。経験を重ねるたびに、あるニューロン集合が“いっしょに活動”する回数が増えると、それらのシナプス結合は強化され、逆に使われない回路は弱まっていきます。これを「神経可塑性」と呼び、脳が学習していく基本的な仕組みだと考えられています。たとえば、何度も同じ道を通えば、自然と道順が頭に刻まれますよね。シナプスも同じで、繰り返し使用される経路は“踏み固められ”ていくわけです。

引用:リスキリングと脳科学①〜人間の脳は何才まで「学ぶ」ことができる?〜
https://what-is-man.me/wp-content/uploads/2025/02/66c19942ab4ba346fdb64ccc04cde373-6.jpg
このように、日々の生活の中で強化・抑制されてきた無数の回路が、私たちの「世界観」や「考え方」、さらに「人格」にまで影響しているのです。「自分の中に確固たる信念がある」と思うとき、脳内ではある一群のニューロン結合が固く結びついているとも言えるでしょう。
ドーパミンがもたらす“学習の方向性”
では、どのシナプスを強化して、どのシナプスを弱めるのか。その選別に深く関わっているのがドーパミンです。脳が「これは大事な経験だ!」と判断すれば、報酬予測誤差に基づいてドーパミンが放出され、今まさに活動している回路を強化します。それは「この行動は正解だった」とか「このパターンは重要だ」という“印”を押すようなものです。
一方、ドーパミンの働きが鈍いと、必要な修正を促すシグナルが十分に伝わりません。つまり、本来修正すべき誤信念があっても、「まぁいいか」とそのまま固定化されるかもしれません。こうして、私たちの信念はドーパミンがかける“アクセルとブレーキ”によってダイナミックに更新されたり、あるいは停滞したりしているのです。
誤信念を“ほどく”難しさ
一度形成されたシナプス結合は、なかなか簡単にはほどけません。たとえば、強い妄想を抱えている人にどれだけ論理的な説明をしても、信念が崩れないケースがあります。これは、脳が既に「これは正しいのだ」という強固な回路を作り上げ、ドーパミンの誤った強化がその回路をますます太くしているからだと考えられます。
では、誤った信念を修正するにはどうすればいいのでしょうか。脳の学習メカニズムに則るなら、まずは“誤差”を感知する必要があります。そのためには、今の信念から少し離れて客観的に検証してみること、そして実際の現実とのズレを体験できる場面が必要です。これがカウンセリングや認知行動療法などで行われる「再学習のプロセス」です。新たな現実を受け入れ、かつそれがドーパミンによる強化プロセスに乗ることで、古い回路に代わる新たな回路が少しずつ育っていきます。
遺伝子多型(遺伝子の個人差)がもたらす“個人差”――信じやすい人、疑いやすい人
さらに、こうしたドーパミンのシグナル伝達には個人差があります。遺伝子としては、ドーパミン受容体D2(DRD2)、ドーパミントランスポーター(DAT1)、カテコール-O-メチルトランスフェラーゼ(COMT)などが有名です。これらの遺伝子は、ドーパミンの受容体や分解、再取り込みを担う“設計図”を含んでおり、配列のわずかな違い(遺伝子多型)によってドーパミンの働き方が変化します。

SNP(スニップ:1塩基多型)とは|初めての遺伝子検査
たとえば、あるDRD2多型では罰からの学習が苦手になる、つまり誤った選択をしても修正しづらいという傾向が見られた、という研究が報告されています。こうした個人差が、私たちの「物事を信じるスタイル」を方向づける可能性があるわけです。もちろん、遺伝子だけですべてが決まるわけではなく、環境や教育、これまでの人生経験も大きな影響を及ぼします。
「人間とは何か?」――シナプスの地図とアイデンティティ
脳内でシナプスがつむぎ出す地図は、時間とともに変化し続けます。私たちはその地図を“自分”と呼び、その中にさまざまな価値観や世界観を折り込んでいく。面白いことに、誤信念もまた、この地図の一部として組み込まれる可能性があります。ある種の頑なさや強い確信は、人生を前に進める力になる場合もあれば、正しい判断を阻む障害にもなり得ます。
最終的に、「私たちが信じること」は脳が作り上げた“物語”のひとつであり、それが自分にとって“真実”だと感じられるからこそ、アイデンティティの土台にもなります。つまり、人間とは「予測をし、シナプスを組み替え、世界を解釈しながら生きる存在」だということ。その一部として生じる誤りや思い込みさえも、人間らしさの表れかもしれません。
ドーパミンという小さな分子が、私たちの学習や世界観を左右し、その背後では繊細なシナプス再編が起きている。こうした脳のドラマを知ると、「信じる」という行為がぐっと奥深いものに思えてきませんか? そして、誤信念や勘違いもどこか愛おしく――あるいは厄介にも――感じられることでしょう。結局、私たちはただの生化学物質のかたまりではありません。しかし、生化学物質に導かれる脳の仕組みが、“人間とは何か”を解き明かすカギのひとつになっているのは確かです。
参考文献
-
Friston, K. (2010). The free-energy principle: A unified brain theory?. Nature Reviews Neuroscience, 11(2), 127–138. https://doi.org/10.1038/nrn2787
-
Howes, O. D., & Kapur, S. (2009). The dopamine hypothesis of schizophrenia: Version III—The final common pathway. Schizophrenia Bulletin, 35(3), 549–562. https://doi.org/10.1093/schbul/sbp006
-
Kapur, S. (2003). Psychosis as a state of aberrant salience: A framework linking biology, phenomenology, and pharmacology in schizophrenia. The American Journal of Psychiatry, 160(1), 13–23. https://doi.org/10.1176/appi.ajp.160.1.13
-
Maia, T. V., & Frank, M. J. (2011). From reinforcement learning models to psychiatric and neurological disorders. Nature Neuroscience, 14(2), 154–162. https://doi.org/10.1038/nn.2723
-
Schlagenhauf, F. et al. (2014). Striatal dysfunction during reversal learning in unmedicated schizophrenia patients. NeuroImage, 89(C), 171–180. https://doi.org/10.1016/j.neuroimage.2013.11.034
-
Seamans, J. K., & Yang, C. R. (2004). The principal features and mechanisms of dopamine modulation in the prefrontal cortex. Progress in Neurobiology, 74(1), 1–58. https://doi.org/10.1016/j.pneurobio.2004.05.006
-
Volkow, N. D., Fowler, J. S., & Wang, G. J. (2003). The addicted human brain: Insights from imaging studies. Journal of Clinical Investigation, 111(10), 1444–1451. https://doi.org/10.1172/JCI18533