
目次
はじめに
スーパーのレジ前で、ついチョコレートやガムを手に取ってしまった経験はないだろうか。退屈な待ち時間、視界に飛び込む甘い誘惑――その配置も、実は巧妙に練られた心理学のトリックだ。私たちの行動はいつも理性的とは限らない。ほんのわずかな「きっかけ」が、意思決定を軽やかにねじ曲げる。
ナッジは強制でも高額な報酬でもなく、人の心の“クセ”をそっと突いて行動を変える。その背後にあるのは、損失回避、デフォルト選好性、社会的証明……数々の実験で確かめられた心理学の法則だ。しかし、私たちの自由意志はどこまで守られているのか――その問いを胸に、ナッジを可能にする心理学の舞台裏をのぞいてみよう。
ナッジを支える心理学的フレーム
損失回避(Thaler & Sunstein, 2008)――人は得よりも損を大きく感じる。
「今なら100円得」より「今しないと100円損」のほうが、私たちを動かす力は強い。
デフォルト選好性(Johnson & Goldstein, 2003)――初期設定はそのまま受け入れがち。
臓器提供を「提供する」が初期設定なら、圧倒的多数がそのまま同意を続ける(Johnson & Goldstein, 2004)。
社会的証明(Goldstein et al., 2008)――周囲の行動が判断基準になる。
「近所の90%が納税済みです」と知らせるだけで、納税率が跳ね上がる(Hallsworth et al., 2017)。
完全に合理的とは言いがたい私たちの判断。その隙間を縫うように、ナッジは設計される。
具体的な手法と応用事例
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デフォルトの活用
年金加入も臓器提供も、「望ましい」状態を初期設定にするだけで参加率が跳ね上がる。 -
フレーミング
同じ内容でも「得」より「損」を強調すれば行動は加速する(Thaler & Sunstein, 2003)。 -
社会的証明
「ほとんどの住民が期日までに支払っています」――この一文が税収を押し上げる(Hallsworth et al., 2017)。
ホテルのタオル再利用呼びかけも同じ仕組みだ(Goldstein et al., 2008)。 -
承諾誘導(フット・イン・ザ・ドア)
小さな「はい」が、やがて大きな「はい」へと連鎖する。負担なく行動を積み上げる古典的技巧。 -
情報の見せ方の工夫
ゴミ箱を派手に、健康食品を視線の高さに――配置を変えるだけで選択は動く(Thaler & Sunstein, 2008)。
小さな介入で大きな成果。費用対効果の高さが証明され(Benartzi et al., 2017)、各国政府や企業はこぞってナッジを導入している。ただし、心理的フレームを使いすぎることへの倫理的葛藤は拭えない。それが次章の論点となる。
おわりに
レジ前のチョコレートから国家政策まで――日常は「ちょっとした誘導」に満ちている。損失回避、デフォルト選好性、社会的証明……私たちの無意識に寄り添う心理学が、その舞台裏に息づく。
だが、心のクセを利用する介入はどこまで許されるのか。選択の主導権は、果たして誰の手にあるのか。次のエッセイでは、ナッジと哲学を交差させ、自由と誘導の狭間に迫る旅へと踏み出す。自分のバイアスを知ることこそ、真に自由な選択への第一歩かもしれない。
参考文献
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Benartzi, S., Beshears, J., Milkman, K. L., Sunstein, C. R., Thaler, R. H., Shankar, M., … & Galing, S. (2017). Should Governments Invest More in Nudging? Psychological Science, 28(8), 1041–1055. https://doi.org/10.1177/0956797617702501
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Goldstein, N. J., Cialdini, R. B., & Griskevicius, V. (2008). A Room with a Viewpoint: Using Social Norms to Motivate Environmental Conservation in Hotels. Journal of Consumer Research, 35(3), 472–482. https://doi.org/10.1086/586910
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Hallsworth, M., List, J. A., Metcalfe, R. D., & Vlaev, I. (2017). The behavioralist as tax collector: Using natural field experiments to enhance tax compliance. Journal of Public Economics, 148, 14–31. https://doi.org/10.1016/j.jpubeco.2017.02.003
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Johnson, E. J., & Goldstein, D. (2003). Do Defaults Save Lives? Science, 302(5649), 1338–1339. https://doi.org/10.1126/science.1091721
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Johnson, E. J., & Goldstein, D. (2004). Defaults and Donation Decisions. Transplantation, 78(12), 1713–1716. https://doi.org/10.1097/01.TP.0000149788.10382.B2
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Thaler, R. H., & Sunstein, C. R. (2003). Libertarian Paternalism. American Economic Review, 93(2), 175–179. https://doi.org/10.1257/000282803321947001
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Thaler, R. H., & Sunstein, C. R. (2008). Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness. New Haven, CT: Yale University Press.