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はじめに
私たちの脳は、まるで「未来を予測する機械」のように働いている──。近年の脳科学や認知科学では、そんな議論が盛んに行われています。その中心となるのが、予測符号化理論と呼ばれる枠組みです。この理論によれば、脳は外部から入ってくる感覚情報を受け身に処理するだけでなく、「自分はこうなるはずだ」という“予測”をあらかじめ立て、その予測と現実との食い違い(予測誤差)を修正することで世界を理解していると考えられます。
脳内での予測と誤差修正の根底には、自由エネルギー原理があるとされます。提唱者の神経科学者カール・フリストンによると、生物は自分にとっての「驚き」や不確実性を最小化し、環境との相互作用を円滑にしようとする性質をもっています。いわば、私たちの脳は「予測の精度を高める」ことを通じて、日々の生活を安定して営んでいるというわけです。しかし、この仕組み自体に偏りやゆがみが生じれば、誤った信念や認知バイアスが生まれる可能性があります。

引用:消費者はなぜ決断を先延ばしにするのか、最新脳科学から推論する対策とは?|Agenda Note
誤信念はなぜ「強固」になるのか?
いわゆる「誤信念」とは、客観的事実と食い違っているにもかかわらず、人が抱き続ける信念のことです。たとえば陰謀論や根拠の薄い噂などが典型的な例でしょう。そもそも脳は、外界の出来事を正確にコピーしているわけではありません。むしろ、ある程度主観的な“仮説”をもって世界を見ており、その仮説と合わない情報は「誤差」として扱います。そしてこの誤差を利用して新たな仮説を更新するのが予測符号化理論の基本的なプロセスです。
ところが、誤信念が形成されると、脳はその仮説を過度に優先してしまい、現実と合わない情報を無視したり誤って解釈したりしてしまいます。たとえば「政府は常に嘘をついている」と信じ込んでいる人がいれば、その人にとっては政府関連のニュースを見るたびに「ほら、やっぱり嘘をついている」と解釈するほうが自然であり、矛盾する証拠は「フェイクだ」「裏があるはずだ」と排除しやすいのです。こうして脳は新たな予測誤差をあまり感じないように環境を解釈し続けるため、一度根付いた誤信念がどんどん強化されていくのです。
精神医学の領域では、統合失調症の一部の症状(たとえば妄想)がこの仕組みで説明されることがあります。わずかな出来事から「自分は監視されているに違いない」と確信すると、以後は監視説を支持する証拠ばかりに目が向きやすくなり、それを打ち消す証拠があっても「むしろ逆に怪しい」と受け取ってしまう。結果的に、その誤信念はさらに強固なものとなります。これは脳の予測システムで想定される「精度の誤配分」によって引き起こされると考えられています。つまり、誤った仮説に対して“確信度”が過剰に高まることで、少しの食い違いでは修正されない状態になるのです。
認知バイアスを生む「トップダウン予測」の力
誤信念に至らなくとも、私たちは普段の生活でさまざまな認知バイアスに悩まされています。有名な例が「確証バイアス」で、自分の意見を裏付ける情報ばかり集め、逆の情報を軽視する傾向です。これも予測符号化理論から見ると、「すでに脳が立てた仮説」に合う情報は精度が高いとみなされ、そうでない情報はノイズとして処理されがち、という仕組みに対応します。
政治的イデオロギーやステレオタイプにも、同じメカニズムが働きます。たとえば、ある属性の人々に対して先入観が強い場合、曖昧な場面ですら「きっとこうだろう」と思い込んでしまい、それに反する事実を「例外」として済ませてしまう。こうした心理は、脳がトップダウン予測を強くかけているがゆえに、新しい情報があっても更新されにくい構造から説明できます。さらに、私たちは無意識に「自分の信念を裏付ける環境」を選んでしまう(能動的な確証バイアス)ことも多く、ますますバイアスは強化されてしまいます。
自由エネルギー原理が示す「驚きを避ける」生物の本質
カール・フリストンが提唱した自由エネルギー原理は、こうした予測符号化の基盤にある普遍的なメカニズムを示すものです。生物は、自らの生存に不利となるような「驚き」や「予測不能な状態」を避けるため、積極的に環境を操作し、あるいは解釈を変えて、自己に都合の良い状態を保とうとします。これを「能動的推論」と呼び、私たちは思考や行動を通じて予測誤差を減らす方向に動きます。
一度形成された誤信念も、当人から見れば「驚きの少ない世界観」の一部です。誤っているかどうかにかかわらず、信念を維持するほうが心理的には安定します。これが誤信念のやっかいなところで、脳にとっては「内部的な整合性」が保ててしまう。外部から見るとおかしな主張でも、本人にとっては合理的に思える──この食い違いが、社会に多様な対立や誤情報問題をもたらす原因の一つと言えるでしょう。

引用:能動的推論とAI|緒方 壽人 (Takram)
脳の予測を客観的に見るために
私たちは驚きを最小化するために、無意識のうちに認知バイアスや誤信念へと突き進んでしまう可能性を常に抱えています。では、どうすればそのリスクを少しでも回避できるでしょうか。脳内で起きている予測プロセスの性質を理解すると、少なくとも「いつでも自分が間違っている可能性がある」ことを自覚しやすくなるのではないでしょうか。
現実世界は常に変化し、私たちの脳も予測と修正を繰り返しています。本来であれば、脳の柔軟な学習能力は誤信念を正せる力を持っているはずです。にもかかわらず修正が難しい場合、そこには先入観の強さや社会的プレッシャー、あるいは周囲に同調してしまう心理など、複数の要因が重なっている可能性があります。逆にいえば、事実確認を丁寧に行い、異なる意見にも一度耳を傾ける態度を続けることで、脳が予測誤差を正しく受け取れるよう工夫することが大切です。
自由エネルギー原理や予測符号化理論は、一見抽象的な数理モデルのようにも見えます。しかし、この考え方を通じて、私たちの脳がいかに「偏りがある推測の名人」であり、「自分だけの物語」を環境に投影しながら生きているかが浮き彫りになります。その仕組みを理解することは、他者の誤解や自分自身の思い込みとの向き合い方を考える上で、非常に示唆に富むと言えるでしょう。
私たちの脳は、常に「驚きを回避しよう」としながら、世界を自分なりに解釈している存在です。こうした柔軟でクリエイティブな予測システムは、ときに誤った方向へ進んでしまうリスクをはらんでいます。しかし、その大元となる仕組みを知ることで、私たちは少しだけ客観的に「自分が今、何を信じているのか」を省みられるようになるかもしれません。誤信念を持った人を頭ごなしに否定するのではなく、その背後にある脳の仕組みを知ったうえで対話をする。あるいは、自分自身が抱えているバイアスや先入観に気づくことが、より柔軟な思考へとつながる第一歩となるはずです。
参考文献
- Friston, K. (2010). The free-energy principle: a unified brain theory?. Nature Reviews Neuroscience, 11(2), 127–138. https://doi.org/10.1038/nrn2787
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