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予測する脳、変化する世界
私たちの脳は、生まれたときから「予測」をしながら生きています。たとえば道を歩くとき、「信号が青に変わったら進めるはず」「足を一歩出せば地面があるはず」といった、いちいち意識しない大量の予測が働いています。この一つひとつが外れると、大きな戸惑いや転倒などにつながるかもしれません。
この「脳による予測」を研究する最先端の理論に、予測符号化理論(Predictive Coding)があります (Clark, 2013; Friston, 2009)。脳は外界からの感覚刺激を受け取るだけでなく、「こんな光景が来るはず」というトップダウンの予測を先回りで立てているのです。そのうえで、実際に入ってきた情報と予測がずれていれば(予測誤差)、その誤差を小さくするよう学習や修正を進めます。これを続けると、外の世界をかなり正確かつ効率的に把握できるようになる——少なくとも、環境があまり変わらなければ、の話です。
最適化する脳の強みと落とし穴
脳が予測を磨き上げると、驚きや混乱が減り、日々をスムーズに過ごせます (Summerfield & de Lange, 2014)。たとえば、自転車に乗るのがうまくなると、一度覚えた感覚を思い出し、安定してペダルをこげるようになるのと同じです。そこにはエネルギーの節約もあります。いちいち「バランス取れてるかな、ハンドルはどうかな」と考えなくても、ほぼ自動的に体が動いてくれるからです。

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このように、予測符号化によって脳内モデルが「最適化」されると、環境が変わらない限り効率的に行動できるようになります (Mermillod et al., 2013)。困ったことに、私たちを取り巻く現実は意外と変化します。もし道路工事で通り道がなくなっていたり、自転車が壊れてタイヤが外れやすくなっていたりすると、これまでの予測モデルが役に立たないどころか邪魔になる場合もある。
実は、予測符号化がもつ“安定性”の裏には、新しい環境への適応が遅れるという影の側面があるのです (Van de Cruys et al., 2014)。一度身につけたパターンや考え方に固執してしまうと、「おかしいぞ?」という予測誤差が出ていても「きっとこれは誤作動だろう」と無視してしまいがちなのです。
「慣れ」が学習を阻む?
おもしろい例として、日常動作を考えてみましょう。たとえば、毎朝同じ時間に起きて、同じ道を使って職場や学校へ行く習慣を続けている人がいるとします。脳はもう慣れきっているので、それが“当たり前”の世界。ところが何らかの事情で通勤路が完全に閉ざされ、新たな経路を開拓せねばならなくなった。このとき私たちは一時的に「どうしよう」とパニックを感じます。「いつもと違う道はわからないし、電車を乗り換えるのが不安だ」と戸惑ったり、道に迷ったり。
この戸惑いは脳が「予測誤差」を受け取っているサインです。しかし慣れたルートに最適化されている脳は、できることなら変更したくない。予測誤差が小さいほうが脳には“楽”だからです 。実際、何とか新しい道を探していても、脳裏で「いや、別の方法であの道を通れないかな?」「少し遠回りだがいつものルートに接続できないかな?」と、いつものモデルに固執しがちになります。ここにはちょっとしたストレスや「現状維持バイアス」も加わり、変化を避けようとする方向へ誘われてしまうわけです。
「アンラーニング」が難しいわけ
こうした脳の性質をより大きなレベルで見ると、職場や住居、対人関係など、あらゆる領域において「一度身についた考え方・やり方を手放すのは案外難しい」ということがわかります (Eppinger et al., 2013)。脳科学では、ある行動を学習していくと関連する神経回路(シナプス)が強化されます。逆に、新しい考え方・やり方を取り入れようとすると、それまで強化された回路を部分的に解除する、いわゆる「アンラーニング」が必要です。

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アンラーニングはただの「学習の逆」ではなく、さらに認知コストがかかる作業と言われています (Dehaene & Changeux, 2011)。なぜなら、脳の内部モデルがしっかり安定しているほど、そこから外れる情報があっても最初はノイズ扱いしてしまうからです。「そんなはずはない」という気持ちが強いと、新しい誤差情報を十分取り込めません。
たとえば「この仕事のやり方がベストだ」「自分は絶対こうあるべきだ」という強い思い込みをもつほど、それを疑って修正するには大きなエネルギーと勇気が必要になります。心理学の研究でも、ストレス下でのルール切り替えテストでは「旧ルール」に固執する人が増えることが報告されています (Eppinger et al., 2013)。これは前頭前野(実行機能)の働きがストレスで阻害され、新しいパターンを試すより慣れた古い手段に頼ってしまうからです。
「安定」と「可塑性」のせめぎ合い
脳の学習では、絶えず「安定」と「可塑性(変化しやすさ)」のバランスが問題になります (Mermillod et al., 2013)。安定を重視すれば、少々の予期せぬ出来事に動じない強靭さが得られますが、大きな変化が訪れると、一転して脆弱になります。逆に可塑性を高めすぎると、環境の小さな揺らぎにも過剰反応し、勉強したことやスキルがすぐ上書きされてしまう。これでは一貫性が失われ、熟練の域にも達しにくいでしょう。
脳はどうやってこのトレードオフを切り抜けているのでしょうか。近年の認知神経科学では、脳が「環境が安定しているか、急に変わる可能性があるか」を推定して、学習の度合いを変えているという仮説があります (Summerfield & de Lange, 2014)。環境が安定していると見なすときは、大きなエラーだけ学習し、些細なズレを無視して安定を守る。一方で、環境が変わりやすい(ボラティリティが高い)と判断するときは、多少のエラーでも積極的にモデルを修正する。
この能力がうまく働いていると、私たちは突然の変化が来ても柔軟にモデルをアップデートできます。ただし、そこにストレスや疲労、病気などの要因が絡むと判断が狂い、必要なときにアンラーニングが行えなくなるのです。
実生活で役立つかもしれないヒント
では、私たちは脳が「すでに得た予測モデル」に固執する傾向とどう付き合えばいいのでしょうか。研究からは、次のような示唆が得られます。
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新しい誤差を歓迎する姿勢
小さなズレや違和感をすぐに無視せず、「もしかするとこれは新しい学びの兆しかもしれない」と見直す習慣を持つことで、脳の硬直化を防ぎやすくなります (Clark, 2013)。 -
一度「わからない」状態に身を置く
旅行先や初めての場所に行くと、私たちは自然に「この道はどこへ通じるんだろう?」と探究モードになります。こうした場面では脳が柔軟に働き、予測誤差に対して開かれた状態になりやすいです。意図的に慣れたルーチンを崩してみるのは、自分をリセットする一つの方法とも言えます (Van de Cruys et al., 2014)。 -
意志力だけでなく環境を整える
「新しいことを学ぼう」「古いやり方をやめよう」と決めても、ストレス満載だと脳は防御的になります (Eppinger et al., 2013)。人間関係のサポートや余裕あるスケジュールづくりなど、環境的な後押しが大切です。ここで欠けてしまうと、実行機能がフルに働かず、アンラーニングに失敗しやすいのです。 -
失敗への耐性をつける
予測が外れたときこそ、学びのチャンスとも言えます。ただ、多くの人は失敗や間違いを嫌います。脳が誤差を扱うのはストレスな行為 (Dehaene & Changeux, 2011)。そこで、失敗を責めたり自己否定したりせず、「そうか、ここが違っていたんだな」とデータ収集の姿勢で向き合うと、脳は建設的にエラーを取り込めます。
終わりに:変化も学び、予測を活かしていく
脳が予測を通じて世界を理解し、誤差をきっかけに学習するプロセスは、一見すると単純ですが、その実、とても巧みにできています 。過去に築いたモデルをいったん手放すのはエネルギーが要るものの、それによって私たちは新しい知見や視点を獲得できます。予想と違う出来事に出会ったときこそ、脳は成長のチャンスを迎えるのです。うまくいけば、「安定」を維持しながらも「変化」にも対応できる——そんな柔軟な生き方を、私たちの脳は目指しているのかもしれません。
【参考文献】
Clark, A. (2013). Whatever next? Predictive brains, situated agents, and the future of cognitive science. Behavioral and Brain Sciences, 36(3), 181–204.
https://doi.org/10.1017/S0140525X12000477
Friston, K. (2009). The free-energy principle: A rough guide to the brain? Trends in Cognitive Sciences, 13(7), 293–301.
https://doi.org/10.1016/j.tics.2009.04.005
Mermillod, M., Bugaiska, A., & Bonin, P. (2013). The importance of being flexible: The balanced concept of cognitive flexibility. Neuroscience & Biobehavioral Reviews, 37(9), 2313–2322.
https://doi.org/10.1016/j.neubiorev.2013.03.014
Summerfield, C., & de Lange, F. P. (2014). Expectation in perceptual decision making: Neural and computational mechanisms. Nature Reviews Neuroscience, 15(11), 745–756.
https://doi.org/10.1038/nrn3838
Van de Cruys, S., de-Wit, L., Evers, K., Boets, B., & Wagemans, J. (2014). Precise minds in uncertain worlds: Predictive coding in autism. Psychological Review, 121(4), 649–675.
https://doi.org/10.1037/a0037665
Dehaene, S., & Changeux, J.-P. (2011). Experimental and theoretical approaches to conscious processing. Neuron, 70(2), 200–227.
https://doi.org/10.1016/j.neuron.2011.03.018
Eppinger, B., Walter, M., Heekeren, H.R., & Li, S.C. (2013). Of goals and habits: Age-related and individual differences in goal-directed decision-making and learning. Neurobiology of Aging, 34(4), 1492–1500
https://doi.org/10.1016/j.neurobiolaging.2012.11.007