目次
はじめに
私達が生きる世界というのは不思議に溢れています。
なぜ子どもは歩けるようになるのか?
なぜ私達は愛し合い、かつ殺し合うのか?
なぜ私達は心を病み、そこから回復していくのか?
当たり前といえば当たり前なのですが、こういった問題というのは一つとっても完全には分かっていません。
こういった謎に対して挑むアプローチというのは様々ですが、有名なものにティンバーゲンの4つのなぜというものがあります。
これはある問題を考える時に(例として、なぜあのヒトが怒っているのかを考えてみましょう)
・メカニズム:どのような仕組みで怒っているのか?→ドーパミンが過剰に分泌されている?
・機能:怒ることで生存上どのようなメリットがあるのだろうか?→社会的地位を守れる?
・個体発生:なぜ怒るような性格になったのか?→小さい頃の家庭環境に問題があった?
・系統発生:ヒトの怒りはどのように進化してきたのだろう?→チンパンジーの激怒よりはマシか・・
このような相補的な問の立て方はある問題を考える時に役に立ちますが、
ある現象を考えるときに、そのスタンスによって生理学的説明、心理学的説明、社会学的説明、進化論的説明ができることになります。
しかしながらこういった説明を一気通貫的に説明できる大原則はあるのでしょうか?
量子力学を発展させたシュレーディンガーは著書「生命とは何か?」で生命のあり方を熱力学で説明できる可能性について述べています。
では21世紀となった現在、熱力学で生命のあり方をどのように語ることができるのでしょうか。
生命に対する熱力学的解釈:自由エネルギー原理とエントロピー
シュレーディンガーは著書「生命とは何か」の中でエントロピー(もしくは自由エネルギー)で生命のあり方が説明できるのではないかということを述べています。
ではこのエントロピーや自由エネルギーとはどのようなものなのでしょうか?
エントロピーというのは、混沌や拡散の度合いを示す概念になります。
物事というのは、放っておくととっちらかっていきます。
形付けたはずの部屋も時間の経過とともに徐々に乱雑になり、
オフィスの机やパソコン上のファイルも放っておくと徐々に乱雑になり
下世話な話ですが部屋の片隅でこっそりとなされたオナラはオフィス全体に拡散し
大きな話ですが、宇宙はビッグバンが起こってからこの方、永遠の彼方に向かって拡散しっぱなしです。
つまり物事というのは放っておくと、まとまりが無くなってどんどんとっちらかっていくという性質があるのですが、
こういったとっちらかりの度合いはエントロピーという概念で示されます(あくまでも概念、イメージです。理系やさんごめんなさい。)
引用元:James Clear “Entropy: Why Life Always Seems to Get More Complicated”
では自由エネルギーとはどのようなものなのでしょうか。
端的に言うと、自由エネルギーとは文字通り、あるシステムが自由に使えるエネルギーということになります。
例としてやかん、もしくはエンジンなどの内燃機関を考えてみましょう。
やかんにも薄手のやかんと南部鉄瓶のような厚手のやかんがありますが
薄手のやかんというのは放熱も大きいので中のお湯はあっという間に冷めてしまいます。
熱エネルギーを動力に変換する内燃機関も、熱エネルギーを100%使えるわけではなく、
動力に変換するまでに様々な形でエネルギーが失われて自由に使えるエネルギーはごく一部です。
引用元:ECO-DRIVE科学
このように自由に使えるエネルギーというのは、そのシステムが持つ放散の度合い(エントロピー)によって減らされてしまうのですが、このような関係は
自由エネルギー=固有のエネルギーー(絶対温度×エントロピー)
という式で示されます。
つまりエントロピー(拡散・混沌)の度合いが高いほど、自由に使えるエネルギーが少なくなってしまいます。
散らかった部屋での仕事やまとまりのないチーム、内戦状態下での経済活動のことを考えると何となく分かるのではないかと思います。
自由エネルギーを増やすためには?
では自由に使えるエネルギー、自由エネルギーを増やすためにはどのようにすればよいのでしょうか。
前段で説明したようにエントロピーが増えるほど、自由エネルギーが減ることになりますので、単純に考えてもエントロピー(拡散・混沌の度合い)を減らせば自由エネルギーが増えることになります。
ファイルでごちゃごちゃになったパソコンは整理することで生産性が高まりますし、
各人がバラバラに仕事をするチームには規律とルールを与えると方向性が定まりますし、
内戦状態に陥った国内での経済活動も、安定的な政権が誕生すれば徐々に活気を取り戻してきます。
パソコンにしてもチームにしても国家にしてもエントロピーの高い状態(混沌・拡散が高い状態)は生産性を落としてしまいますが、
これを生命活動に当てはめるとどのようになるのでしょうか。
生命活動と行っても色々ありますが、ここでは冒頭に上げた行動や学習、発達、進化という切り口で考えてみましょう。
個体の行動メカニズムと自由エネルギー
まず最初に「行動」で考えてみましょう。
行動というのは感じて動くことで成り立っています。
今目の前のコップを見て手をのばすという行動を考えてみます。
当たり前のことですが、目の前のコップを見ればコップと認識することができます。
しかしながらなぜ私達はコップをコップと認識できるのでしょうか。そこにはどのようなメカニズムが働いているのでしょうか。
人工知能ででてくるトピックにフレーム問題というものがあります。
目の前にあるものが果たしてコップなのか、型抜きなのか、爆弾なのか、芸術作品なのかという判断は多くの場合は文脈によります。
引用元:Takayuki DAIKOKU official website 「マルセル・デュシャンの「泉」。で、なんでこの便器がアートなの??」
目の前のものが何を意味するのかというのは、本当のところは混沌としていてコンピュータも判別に苦労するのですが、私達の脳は記憶と経験と置かれた状況からその混沌の度合を減らして当たりをつけます。
台所でコップを見ればコップと認識し、美術館でそれを見ればアートとして認識し、廃棄物置き場でそれをみればゴミとして認識します。
このように脳は無数の可能性の中から個体の生きてきた来歴と置かれた状況をもとに予測的に物事を認識しますが、こういった認識のあり方は予測的符号化と呼ばれます。
この予測的符号化があるからこそ、状況に応じて柔軟にかつサックリと、対象が何であるかを認識することができます。
それではコップをコップと認識したとして、それに手を伸ばして持ち上げるという運動を考えてみましょう。
おそらくあなたは何も考えることなく、意識することもなくコップを持ち上げられますが、これはなぜなのでしょうか?
普通のコップに見えても実はクリスタルグラスで案外思いかもしれませんし、
電熱コイルが仕込んであってものすごい熱かったり、あるいはオイルまみれでヌルヌルしていて滑ってしまうということもあるかもしれません。
世の中というのは不確実性に満ち溢れていて、今までの常識が通用しないこともあるのですが、私達の脳は今までの経験をベースに、最も可能性の高い状態を予測します。
そしてその予測があっている(普通のコップだ)という前提で、一瞬先の体の様子(コップはこれくらい持ち上げられていて肘はこれくらい曲がっている)を予測して、その予測が実現されるようにエイヤと身体を動かします。
つまり認識するにしても運動するにしても、脳は今までの経験をベースに最も可能性の高い状態を予測して、それに基づき動くことで不確実性極まりないこの世の混沌度合い(エントロピー)を減らします。
予測なので時には外れることもあるのですが、それはそれで新たに学習されることで予測はより精緻なものになっていきます。
ではヒトにおける学習とはエントロピーの立場からどのように考えることができるのでしょうか。
学習メカニズムとエントロピー
私達は失敗しては学んでいく生き物ですが、学習とは予測を精緻にしていくことともいえます。
しかしながら予測を精緻にするというのはどのようなことなのでしょうか?
例として下の図を見てみましょう。
引用元:大平英樹(2017).予測的符号化・内受容感覚・感情.エモーション・スタディーズ,3, 2–12.
例えばあなたが野球をしているとします。
野球で外野を守っていて、ボールがこの辺に飛んできそうだなという当たりをつけたりすることもありますが(黒色の事前分布)、
実際には別のところへボールが飛んでくるということもあるかもしれません(赤色の感覚信号)。
予測が外れたあとというのは、そこから学習して予測もだいぶ精度が上がって、当たる確率も高くなります(青色の事後分布)。
あるいはもしあなたが理学療法士で、歩行介助が難しい患者さんを歩かせているとします。
患者さんを転倒させないように一瞬先の患者さんの重心はこっちに向かうだろう(黒色の事前分布)と予想しながら介助しますが、
実際の患者さんの重心方向の移動は思っていた方向と少しずれていた(赤色の感覚信号)ということもよくあります。
こういった場合には予測は修正され、次の予測はより精緻なものになります(青色の事後分布)。
このように私達は何かを認識したり行動したりする時に予測を用いて世の中の不確実性(エントロピー)を減らして自由に使えるエネルギーを増やしますが(予測的符号化)、
予測して動いてみてその行動が間違っていれば、予測はより精度の高いものに更新され、さらに不確実性(エントロピー)をへらす方向へ向かっていきます。
つまり不確実性(エントロピー)を減らす行為(認識と行動)がさらに不確実性(エントロピー)を減らす行為(学習)につながっているということになります。
ではこの学習というのは、もう少し長いタイムスケールでみた場合、どのような変化を引き起こすのでしょうか。
個体発生とエントロピー
さて私達の心と体の有り様は遺伝子によって予め決められている部分も大きいのですが、環境によって変わる部分もまた大きいものとなっています。
しかしながら環境によってなぜ私達の心と体が変わってしまうのでしょうか?
遺伝子というのは硬い部分と柔らかい部分があります。
楽譜で言えば、音符の並びそのものは変え難い部分なのですが、楽譜の記号のように、ここは力強く、あるいは柔らかく演奏するというような部分は柔らかい部分です。
また脚本で言えばセリフそのものは変えられなくてもト書(悲しそうに、悩ましげに)などのような脚注は変えることができる部分です。
遺伝子においては、この柔らかい部分に当たる場所が環境によって変わる場所であり、このような変わり方はエピジェネティクスとも呼ばれています。
過酷な家庭環境で育った子どもは往々にして我慢が苦手で今現在の欲求を優先してしまうという報告もありますが、
これは一瞬先の自体を予測できないような不安定でサバイバルな環境では、今現在取れるものを確実にとっておいたほうが利得が大きいということがあり、
そのような環境で学習を重ねることで遺伝子レベルで変化が生じ(ドーパミンをより低い閾値で出すように)、心と体がサバイバルな環境に適応した結果とも考えることができます。
私達は不確実性を減らして自由にエネルギーを使えるように行動します。
行動することで学習が促され、さらに不確実性は減ります。
学習が繰り返される中で個体は遺伝子を変えて、更に不確実性を減らせるように自らのあり方を変えていきます。
このような変化は発達、もしくは個体発生という言葉でも表現できますが、その本質は不確実性を減らせれるように自らを最適化することです。
ではこのような個体発生のあり方は更に大きな枠組みではどのような変化を引き起こすのでしょうか?
国民性とエントロピー
さて先に述べたようにヒトの体にはエピジェネティクスと呼ばれる機構があり、これは個体の生きてきた来歴を反映して個体のあり方を変えるような仕組みとなっています。
ではこの個体の変化は集団の変化にどのような影響を与えるのでしょうか。
ここに仮に非常に治安が悪く殺人事件が絶えないような地域というものを考えています。
このような危険な環境では、衝動性を高めるような方が生き残る上で有利かもしれませんし、心と体のあり方も遺伝子の変化によって衝動性を優先するように傾いていきます。
またエピジェネティックに引き起こされた変化は子や孫まで伝えられてしまうことや、バイオレンスな環境下では衝動性の高い個体が子孫を残しやすいことを考えると、
バイオレンスな環境下でもっとも不確実性(エントロピー)が低い振る舞い方というのは、衝動的であるということになります。
つまりバイオレンスな行動をして→バイオレンスな学習をし→バイオレンスに発達して→バイオレンスな社会を作るという連続的で入れ子的な関係性があります。
以上は治安が悪い環境を例に取りましたが、自然災害が絶えず襲ってくるような地域では、自ずと不安感が強く協調性が高い個体が生き残り、マジョリティとなって同調性の高い社会を作り上げるということもあるかもしれません。
ニッチの形成と種の進化、エントロピー
さてヒトは置かれた環境で変わっていきます。
暴力的な環境では、それに応じて行動し、学習し、成長し、社会を築き、
自然災害が絶えない環境では、それに応じて行動し、学習し、成長し、社会を築きます。
ではこれを更に長いタイムスケールでみるとどうなるでしょうか。
繰り返し述べてきたように、全ての生き物は自由に使えるエネルギーを最大化できるように、エントロピーを最小化できるように行動し、学習し、社会を作ります。
ここでキーになるのが予測可能性ということです。
世界は不確実ですので、私達はできるだけ正確に予測して不確実性(エントロピー)を低くしようとします。
とはいえ、限界もあります。
魚であれば水の中は予測可能で、その予測可能性を高めるように体の作りも最適化されていますが、陸の世界というのは予測不可能な世界です。
学者であれば研究室や学会の中で起こることは予測可能ですし、その予測可能性を高めるように教育されますが、ビジネスの世界というのは予測不可能な世界です。
ドメスティックな企業であれば、競争が国内に限定されていれば無敵かもしれませんが、規制が緩和されて世界競争に巻き込まれるというのは予測不可能な世界に放り込まれることと同じです。
こういった状況で取りうる手段は2つに絞られるでしょう。
一つはニッチを作ってそこにとどまることです。
魚であれば水の中に、学者であれば研究室の中に閉じこもって、ニッチの中にいることで不確実性(エントロピー)を最小化して自由に使えるエネルギーを大きくことです。
もう一つは自らの持つ潜在態を拡大することです。
魚であればたまたま持っていた体内の浮き袋を肺として活用して陸上に適応するということもあれば、
ドメスティックな企業であれば、たまたまいた枠にはまらないはみ出し物の社員のおかげで世界で戦えるようになるということもあるかもしれません。
ニッチを作ってとどまるにしても、潜在態を拡大すること(すなわち進化)にしても、これらはエントロピーを低下させて自由に使えるエネルギーを大きくするという同じ文脈で説明することができます。
行動、学習、発達、進化をつなぐ自由エネルギー原理
さてここまでの話ですが、行動は学習に繋がり、学習は発達に繋がり、発達は進化に繋がりますが、
これらは全て不確実性(エントロピー)を低くして自由に使えるエネルギーを大きくするという一つの原理でくくれることが分かるかと思います。
記事の冒頭にあげたティンバーゲンの4つのなぜで示される個体が持つメカニズム、機能、個体発生、系統発生ですが、これらは自由エネルギー原理と呼ばれる一つの法則で連続的につながっているということです。
これを一つの図としてプロットしたものが以下のものですが
横軸を時間、縦軸を適応する距離(ともに対数的記載)とすれば、関係性が分かりやすいかと思います。
終わりに
私達は自由に生きられるような気がしますが、よくよく考えて見ればそんな事はありません。
ゾウリムシから始まる私達の有り様は、どこで生まれたのか、誰から生まれたのか、いつ生まれたのかという点で大きく制限されており、その制限の中で生き抜いていかなければいけません。
ニッチの中に適応できる遺伝子を持っていれば比較的幸福に生きられるかもしれませんが、そうでない人もまた多くいます。
ニッチの中で適切なスペックを持っていない個体は”不適応”と呼ばれて苦労することもあるでしょう。
このような個体が持ちうる方略は3つあります。
上の図と照らし合わせるならば
置かれた環境に馴染むか(個体を変える)、置かれた環境を変えるか(グループを変える)、置かれた環境から飛び出すか(ニッチを変える)という3つの選択肢を私達は持っています。
変えがたいものと変えやすいものを見極めた上で行動し、その生を全うして生きていきたいものです。
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