はじめに
ヒトの有り様は生まれか育ちかというのは数千年論じられているテーマなのですが、ここ最近はどちらがどちらということもなく、
遺伝子と環境の相互作用によって個体のあり方が規定されて来るということが信じられてきています。
しかしながら環境のどのような因子が脳の変化を促すのでしょうか。
この記事では、環境と脳の相互作用についての生理学的研究について9本取り上げ、
実際の生活との関わりも含めながら解説します。
環境でヒトは変わるか
「可愛い子には旅させよ」ということばがあったり
世界のあちこちには寄宿制のエリート校があったりしますが,
果たして子どもの脳というのは親元を離れ,複雑な社会環境で生きることで何かしらの変化が起こるものなのでしょうか.
今日取り上げる論文はキンカチョウを対象に社会環境を変えることで脳がどう変わるかについて解剖学的に調べたものです.
結論を述べると,小さな鳥かごを離れて広い世界で仲間に揉まれて育ったキンカチョウの脳というのは,そうでないものと比べて脳の発達が促されていたことが示されています.
これは小鳥を対象にしたものなのでヒトがどうなのかはわかりませんが
広い世界で仲間に揉まれた個体というのは脳の発達もまた促されるのかなと思いました.
結局のところ生まれなのか育ちなのか
生まれが大事だとか教育が大事だとかいろいろ言われることがありますが,はたして最終的に大事なのはどちらなのでしょうか.
生物学の中にはエピジェネティクスと呼ばれる分野があるそうです.
これは遺伝子の働きが後天的な影響で様々に左右されることについてのもののようで,その意味では生まれも育ちも大事なのかなという気がしますが
今日取り上げる論文は”育ち(環境)”が大きく心身ともに大変化してしまうイナゴについて詳しく調べたものです.
Epigenetic remodelling of brain, body and behaviour during phase change in locusts
このイナゴは普段は人付き合いを避けるおとなしめの小型の生き物なのですが,食べるものがなくなって,否応なしに他のイナゴがわさわさいるような環境に放り込まれると,遺伝子の働きが大きく変化してイケイケドンドンの巨体の集団イナゴに変身してしまうそうです.
こういった変身は行動レベルでは数時間,神経系や筋骨格系は数世代かかるそうですが
決定的なのは行動レベルの変容が起こる数時間で
この数時間でイナゴの体内のセロトニンが増えることで遺伝子発現の変化スイッチが大きく切り替わることが述べられています.
動物の遺伝子発現は環境で大きく変わり
かつ自然環境以上に彼らが過ごす社会環境(個体間の相互作用)が大事だということで
イナゴの話をヒトに簡単には拡張できないのは承知ですが
家庭や学校,地域というのはヒトが密集して過ごす社会環境というのは遺伝子の発現に何かしら影響を与えうるのかなと妄想したりしました.
環境が変われば脳の何が変わるのか
子どもの発達のために住む場所を変えた孟母三遷の教えもありますが
環境というのは人に大きな影響をあたえるそうです.脳科学の分野でも環境で脳が変わるという報告は数多くなされているのですが
はたして環境が変わると脳の何がいったいどのように変わるのでしょうか.
今日取り上げる論文は環境が脳をどのように変えるかネズミを対象にして行われた研究を取りまとめて説明したものです.
Response of the brain to enrichment.
結論を述べると
①脳の中でも高次の認知機能に関わる部分が環境の影響を最も強く受ける
②具体的には脳の大脳皮質(灰白質)の厚さが増大する.これを詳しく見ると脳の神経細胞の樹状突起が質量ともに大きく増大する.
③このような変化は出生前や生後間もないころ,老齢になるまですべての段階で起こりうる.
④豊かな環境においたとしてもそれが長期化すると刺激が少なくなり,脳は元に戻ってしまう
ということが述べられています.
樹状突起の変化については
通常老化していくのであれば添付図下でA→D→E→Fというように見るからに神経細胞が貧しくなっていくのですが
豊かな環境に置かれると添付図上のA→B→Cというように樹状突起がもりもり茂ってくる様子があるそうです.
こういった変化は若年であれば(ネズミを対象にした実験ですが)最短4時間で遺伝子レベルで変化が起き
数日で樹状突起レベルの変化が起こり始めるらしいのですが
子どもがちょっと遠出したり新しい経験をするとグンと変わったり
退院した患者さんが家に帰ってちょっとするとぐんと良くなっているのは
この辺の影響もあるのかなと思いました
転職は脳に効くか
終身雇用をよしとしていた時代もだいぶ過ぎようとしており,ここ10-20年転職が一般的になりつつありますが,この転職というのはヒトの脳にどのような効果をもたらしうるのでしょうか.
今日取り上げる論文は環境の変化が脳にどのような影響を与えるかについてデンキウナギを用いて調べたものです.
脳というのは社会的な刺激に敏感に反応するようで,何かしら社会的な環境に置かれると脳の発達が促されることがいろいろな研究から示されています.
しかし,ただ社会的な環境にいれば良いというわけでもなく,
ポンと放り込まれた最初のうちは脳も発達するけれども,それが長くなりマンネリ化すると元通りになってしまうことも様々な研究から示されています.
今日取り上げる研究ではデンキウナギを
①一匹で14日間過ごさせる
②7日ごとに相方を変え,14日間過ごさせる
③2日ごとに相方を変え,14日間過ごさせる
という条件で脳の変化やコミュニケーション活動の変化を調べたところ,
ころころ相方が変わる③の条件が最も脳が変化し(新生細胞の数が増え)
コミュニケーション活動の量も高まっていたことが示されています.
こういったことから,ただ社会的な環境におけば脳がよい方に変化するというわけではなく
社会が持つ物珍しさ,つまり新奇性があるかぎりにおいて脳の変化が促されるのではないかということが述べられています.
どんなエキサイティングな仕事でもいずれマンネリになるのならそこに脳の発達はなく
新たな環境,新たな刺激を出会うところに脳の発達があるのかなと思いました.
脳と環境
夫婦や家族というのはよくいわれるように空気に似ていて
普段普通に過ごしている分にはどうにも感じないけど、ふと皆がでかけてしまって一人で夜を過ごすような事になった時にはなんだか寂しいなと思うことがあります。
この家族がいないという空虚感はそれなりのストレスを生むと思うのですが、生理学的にはどのようなことまで分かっているのでしょうか。
今日取り上げる論文は、ペアで過ごしているネズミのつがいを一匹外へ出してやった時、取り残されたネズミのカラダに何が起こるかについて調べたものです。
Cage mate separation in pair-housed male rats evokes an acute stress corticosterone response
結論を述べるとストレスホルモンの一種が引き離された直後に増加すること、しかし2時間弱で慣れてしまって元の状態に戻ること
さらにはこのストレスホルモンは巣箱を掃除したり模様替えしたりという環境変化でも増えるのだけれども、
そういった効果を遥かに凌駕して分離によるストレス反応が見られたことが示されています。
ネズミは繊細な動物のようで,ちょっと巣箱の様子が変わってもカラダに響くようですが,こういった要素を凌駕してパートナーがいなくなるという事態がカラダに響いてしまうようで
ネズミを含む哺乳類にとって,パートナーというのは最大の「環境」なのかなあと思いました.
豊かな環境で脳のどこが変わるか
脳というのは一度損傷するとそこから変わらないというのは大分昔の話で、
ここ数十年は一度損傷しても時間経過とともに様々に回復してくることが報告されています。
こういった回復を促す要素は様々にあるのですが、刺激に溢れた豊かな環境というのも脳の回復に大事なようで、これまたいろんな研究から、豊かな刺激が脳の回復、改善に良いことが報告されています。
しかしながら豊かな環境というのは脳のどの辺をどのように変えるのでしょうか。
今日取り上げる論文は、人工的に脳梗塞を発症させたラットを対象に豊かな刺激に溢れた環境が、脳にどのような影響を与えるかについて調べたものです。
脳の神経細胞というのは特殊な形をしていて、昔理科の教科書で見たような細胞体から軸索と呼ばれる長い枝が出ていて、さらにその枝から樹状突起と呼ばれる小さな枝がいっぱい出ています。
さらにこの細胞体、軸索、樹上突起の一揃いが更に縦に6つ重なって1つのユニットを組んでいます。
今回の実験では、このユニットのどの辺に変化が見られるか調べているのですが、脳梗塞とは反対側の大脳半球で変化が見られ、その変化は6層構造の上の方の樹上突起において変化が大きかったことが示されています。
この6層構造というのは、各層によって役割が違うようで、今回注目された表層の部分は、脳の各領域を繋げるような役割があるそうで、それゆえ豊かな環境→機能改善につながったのではないかということが述べられています。
いずれにしても、ものを細かく見ることは大事だなあと思いました。
生き延びる経験が脳を作る
街のおもちゃ屋さんに行けば多種多様,いろんな種類の知育玩具や教育絵本が並んでいますが,はたして子供の脳を発達させる何かがあるとしたらそれはどういったものなのでしょうか.
脳の発達を論じる本を読んでいると決まって出てくるテーマが生まれと育ち,言い換えれば遺伝子と経験なのですが,果たして経験というのは脳にどれほどの影響をおよぼすのでしょうか.
今日取り上げる論文は砂漠に生きるサハラサバクアリという昆虫を対象に経験が神経系の発達に与える影響について調べたものです.
サハラサバクアリというのは極めて強靭な昆虫で炎天下のサハラサバクを太陽の位置を目印に長距離移動する生き物なのですが,この強靭な生き物の寿命もまた短く,ホタルと同様,地上で生活するのは約1週間という短い期間だけのようです.
この論文ではこの1週間でサハラサバクアリの脳(キノコ体:添付図)に何が起こるのかについて調べているのですが,やはり地上に出たアリと地中に潜ったままのアリでは,地上で一生懸命餌を探して移動して歩いたアリの方がキノコ体が大きく成長することが示されています.
こういったことから神経系が発達するためには,ただじっとしているだけでは不十分で(地中のアリ),実際に生存を求めて外部と関わって活動する必要があるのではないかということが述べられています.
むろんアリの話なのでヒトの発達に当てはめることはできないとは思いますが,何かの知識を詰め込むよりも,何かしらの目的を持って世界とインタラクションすることが脳の発達を促すのかなと妄想しました.
環境は少年をオトコにするか?
可愛かった子どももいつしか声変わりし,髭も生えたりして独り立ちする日が来るのでしょうが
果たして社会的環境というのは男の子の性成長に影響をあたえることはあるのでしょうか.
今日取り上げる論文は環境が性成長に与える影響についてネズミを使って調べたものです.
Sexual maturation in male prairie voles: effects of the social environment.
実験では思春期のオスネズミを父親や母親,弟,他ネズミなどと育てたり離したりすることでどう性成長(生殖可能なオトナのオスネズミ)が変わってくるかについて調べたものですが
結果を述べると社会的な環境によって性成長に変化はなかったこと,また独り立ちする直前に性成長が始まることが示されています.
この研究では社会環境と性成長の関係は示されなかったのですが
先行研究では関係があることも多数報告されてるので実験方法にも問題があったのではないかということが述べられています.
とはいえネズミは生殖可能になるやいなや親元を離れるようで,
生物学的には思春期になったら丁稚奉公に出るくらいの昔の生活のほうが自然だったのかなと思いました.
まとめ
脳が発達するには個体と環境が相互作用するような状況にいることが大事で、
とりわけ新奇な状況、生き延びるために考える必要があるような状況というのは脳の発達を促すようです。
子供時代であれば好奇心をもたせてチャレンジされるような環境(親が見ていてちょっと危ないような遊びということになるのでしょうか)、
大人であれば、身銭を切ってチャレンジングなビジネスに手を出す(配偶者が見ていてちょっと危ないような生き方ということのなるのでしょうか)
ということが脳の発達を促すのでしょうか。
どこかのデイサービスでアクティビティにギャンブルを取り入れたら認知機能が良くなったという話を聞いたことがありますが
少しサバイバルな環境に身を置くほうが脳の発達には良さそうです。
これも薬が効きすぎると心身を崩すこともあるので塩梅が大事だと思いますが、
ワクワクドキドキ、自分で世界を拡張していくような感覚が脳には良いのかもしれません。
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