神経生理学から見るナッジ――二重過程モデルと脳内メカニズム
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はじめに

朝の通勤電車で、ふと目にしたポスターに描かれた「多くの人がすでに始めています」という文言。気がつけば自分も同じ行動を取ろうとしている。こうしたちょっとした誘導、いわゆる「ナッジ」は、私たちの日常にどれほど入り込んでいるのだろうか。

前回までのエッセイで紹介したように、ナッジは行動経済学や心理学の知見に基づき、人々を「そっと望ましい方向」に後押しする手法である。だが、「なぜそれがうまくいくのか」を理解するには、心や脳の深い仕組みに踏み込む必要がある。そこで今回は、二重過程モデル(システム1とシステム2)に注目しつつ、神経生理学的な研究で明らかになりつつある「人間の意思決定の脳内メカニズム」を探る。さらに、実際の神経科学実験が示す具体的な例を踏まえ、ナッジが脳をどのように揺さぶるのかを眺めてみたい。

二重過程モデル―システム1とシステム2

直感vs.熟慮の二重構造

行動経済学者でノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンが広めた概念として、二重過程モデルがある(Thaler & Sunstein, 2008 )。これは、人間の意思決定を大きく2種類のプロセスに分けて考える理論だ。

  • システム1: 直感的・自動的・素早い判断を行う。
    感情や経験則(ヒューリスティック)に大きく依存し、深く考えなくても瞬時に答えを出してしまう。危険回避や日常の些細な選択には便利だが、バイアスに流されやすいという弱点がある。

  • システム2: 論理的・分析的・熟慮的な判断を行う。
    意識的に努力して情報を処理し、慎重に結論を導く。計算や計画、自己抑制などが求められる場面で機能するが、エネルギーを消耗しやすいため常時は稼働しにくい。

 

 

 

 

 

 

 

 

ナッジが巧みに働くのは、多くの場合システム1が主導権を握っているときだと言われる。たとえばデフォルト設定で「すでに選ばれている」状態があれば、人はわざわざ変更するのが億劫なので、そのまま受け入れがちになる。この「億劫さ」は、面倒を避けようとする感情や直感に基づく反応で、システム1の特徴をよく表している。

なぜシステム1が優勢になるのか

現代社会では情報量が爆発的に増え、私たちは常に多くの選択や判断を迫られている。その一つ一つをシステム2で緻密に検討するのは不可能に近い。結果としてシステム1が“自動操縦”の役割を担い、私たちの行動の大半を決めるという構造が生まれる。

ナッジはこの構造を逆手に取る。デフォルトバイアスや社会的証明、損失回避のフレーミングなどは、システム1が陥りやすいバイアスを利用した技術である。だが、システム1が反応する根本はあくまで「脳の生理学的・神経学的な仕組みによって生み出されている」という点を見落としてはならない。

神経生理学的研究が明かす意思決定のメカニズム

脳内の主な役割分担

私たちの「選択」や「判断」は、脳のさまざまな部分が協力し合うことで行われている。ここでは特に、次の3つの領域が重要だと指摘されている(Felsen & Reiner, 2015)。

  1. 前頭前野

    • 頭の前の方にあり、論理的思考や計画を立てるはたらきを担う。

    • 意思決定をコントロールする“指揮官”のような部分で、直感に流されずじっくり考えるときに活性化する。

  2. 扁桃体

    • 脳の深いところにあり、恐怖や不安など強い感情を司る部分。

    • 「これをやったら損をするかもしれない」「危ないかも」というときに強く動き、行動に影響を与える。

  3. 線条体

    • 快感や「得をしそう」という報酬感覚を扱う領域。

    • 期待する利益に対して「ワクワクする」気持ちを作り出し、行動を起こすエネルギー源になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

脳のしくみが生む“デフォルト効果”

ナッジでよく取りあげられる「デフォルト効果」とは、初期設定があれば、わざわざ変更するのが面倒でそのまま選んでしまう現象である。たとえば年金プランの加入が「デフォルト(初期設定)」になっていれば、多くの人はそれを受け入れるという話が典型的だ。

この裏側には、脳の「損や不安を避けたい」という性質が大きく関係する。初期設定を変えるためには、時間や手間をかけて考えなければいけない。すると扁桃体が「面倒だ」「失敗したら怖い」と強く反応し、結局そのままにしておこうという気持ちを引き起こす。

一方、前頭前野を使って「本当に得なのか?」とじっくり考えれば、「変更したほうが自分には合っている」と判断できる場合もある。しかし忙しかったり疲れていたりすると、前頭前野をフル活用する余裕がない。そうなると「デフォルトならそのままが楽」という扁桃体の反応が勝ってしまいやすい。

社会的証明と“安心感”の正体

もう一つの代表的なナッジの手法に「社会的証明」がある。たとえば「多くの人がこのサービスを利用しています」と言われると、「みんながやっているなら大丈夫だろう」と思いやすい。

脳の観点から見ると、線条体がこのときに「安心感」に近い報酬感覚を得ている可能性がある。集団の多数派に自分を合わせれば、“外れる恐怖”や“損するかもしれない不安”を回避できるからだ。

もちろんこれは、周りに流されすぎる危険もある。しかし周囲の選択と同じ道を取ることで、短期的には「みんなと同じ」という報酬感覚が得られやすい。こうして脳内の線条体や扁桃体が連動し、「自分だけ違う行動を取るリスク」を避けようとするわけだ。

研究が示す可能性と課題

このように神経生理学的な研究は、ナッジがどこに働きかけて行動を変えているのかを細かく説明しはじめている。人間の脳は、損や不安を嫌う扁桃体や、得をしたい気持ちを高める線条体など、感情や報酬に敏感なシステムをもつ。その結果、デフォルトや社会的証明といった小さなきっかけで判断が左右されやすい。

ただし、こうした研究がさらに進むと、より個人の脳特性に合わせた「精密なナッジ」を作ることも可能になるかもしれない。たとえば「Aさんは社会的証明に特に強く反応する」「Bさんは損失回避を過度に恐れる」といった情報を活用すれば、さらに効果的な(あるいはさらに一方的な)介入が設計できるからだ。そうなれば、私たちの選択がより深いレベルで「そっと操作」される危険も大きくなる。ここに倫理やプライバシーの懸念が生まれるゆえんである。

進化の視点――なぜ私たちはナッジに流されやすいのか

二重過程モデルの進化的理由

人間がシステム1(直感・迅速)とシステム2(熟慮・抑制)の二重構造をもつ背景には、長い進化の歴史があると指摘される(Santos & Rosati, 2015)。狩猟採集社会では、捕食者から即座に逃げる、仲間と協調して資源を確保する、といった対応が生存に直結していた。システム1的な素早い判断は有利だったのだ。

その一方で、複雑な道具の使用や社会規範の遵守には、じっくり考えるシステム2が必要になる場面もあった。こうして二重過程モデルが発達し、人類は「すばしっこい直感」と「緻密な熟慮」を状況に応じて使い分けるようになったと考えられている。

ナッジと進化的バイアス

しかし、現代の環境は進化時代とは大きく異なる。国家政策やマーケティングは、人間のバイアスを高度に分析した上でナッジを設計することが可能となり、私たちの進化的特性が別の形で利用されている。たとえば社会的証明は、「多くの人が選んでいるからきっと安全だ」という集団行動への進化的適応を利用する。一方、損失回避は「失うリスクへの過剰な恐れ」という進化の産物を利用する形だ。デフォルト効果は、「変化するリスクを避ける」という保守的戦略に根ざしたものと言えるだろう。

こうしたバイアス利用が市民の幸福を増進する場合もあれば、営利企業に都合の良い消費行動を生み出すだけの手段となる場合もある。それゆえ、ナッジには常に「誰がどのような意図でバイアスを使っているのか」という倫理的・政治的懸念がつきまとう。

まとめと展望――脳科学がナッジに与える示唆

見えてきた問い

ここまで二重過程モデルの概要と、神経生理学的研究の具体例、そして進化心理学の背景から「なぜナッジは効果を発揮するのか」を整理してきた。ナッジのキモは、システム1の特性や進化的に形成されたバイアスをうまく突くことで、システム2による熟慮を介さず行動を促す点にある。脳科学の実験からは、扁桃体や線条体の活動といった具体的なメカニズムが解明されつつあり、より細やかなナッジ設計のヒントにもなっている。

同時に、こうした研究は「どこまで人間が自律的な判断をしているのか」という根源的な問いにも光を当てる。ナッジがあくまで「デフォルトを変える自由」を残すといっても、脳内では“面倒を避けよう”という強い衝動が優勢なら、実質的には誘導されたまま行動することになるのではないか。

今後の課題と未来

神経科学が進めば、個人の脳反応やバイアス傾向を精密に測定し、よりパーソナライズドなナッジが可能になるという見通しもある。だが、それは私たちの自由やプライバシーを侵すリスクを高める恐れがある。進化の名残によるバイアスを適切に使うのか、それとも悪用するのか――この境界をどう設定し、誰が監視するのかが重要な論点だ。

さらに、ナッジを倫理的に正当化するための「透明性確保」や「説明責任」の仕組みづくりも、脳科学的知見と統合して検討が必要だろう。たとえば「どのバイアスを利用して、どんな脳回路を狙った施策なのか」を公表すべきという意見もあれば、それを公表すれば効果が失われるというジレンマもある。

結局、私たちが脳科学や進化心理学の発見をどう社会に取り入れるかは、科学の問題であると同時に政治・哲学の問題でもある。ナッジが脳のメカニズムに強く根差していることを自覚することで、私たちは一歩引いて「操作か、それとも助力か」という問いを冷静に検討できるようになるのではないか。

おわりに

朝の通勤電車で見たポスターが、もしかすると「システム1をくすぐる」仕掛けだったと知れば、私たちは少し違った目で社会を見るかもしれない。ナッジは、脳の二重過程モデルと進化的背景を巧みに利用し、人の選択をそっと変える方法だ。しかし、その力はあまりに強大であり、使い方を誤れば自由を脅かす危険も孕む。

最終的に、ナッジとどう付き合うかは個人だけでなく社会全体の責任でもある。脳科学や行動経済学がどれほど発達しても、その成果を「誰がどう使うか」を問い続ける姿勢こそが重要だろう。ナッジは私たちの脳と行動に光を当てる一方で、人間の自由や意思決定の尊厳を守るために新たな倫理的・制度的枠組みを求めているのかもしれない。

引用文献

  • Felsen, G., & Reiner, P. B. (2015). What can Neuroscience Contribute to the Debate over Nudging? Review of Philosophy and Psychology, 6(3), 469–479. https://doi.org/10.1007/s13164-015-0240-9

  • Santos, L. R., & Rosati, A. G. (2015). The evolutionary roots of human decision making. Annual Review of Psychology, 66, 321–347. https://doi.org/10.1146/annurev-psych-010814-015310

  • Thaler, R. H., & Sunstein, C. R. (2008). Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness. New Haven, CT: Yale University Press.

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