「わたし」とはなにか?
「わたし」という感覚は当たり前過ぎて、普段とりわけ考えることもありませんが、よくよく考えるととても不思議な感覚です。
「わたし」という感覚は一枚岩のようなガッチリとした感覚ではなく、
裸の自分を感じるような生の感覚から、集団との一体感を感じるような超越的な自己感覚まで様々で、瞬間瞬間でその姿を変えていきます。
臨床場面でしばしば遭遇する半側空間無視や病態失認、統合失調症や摂食障害はある意味「わたし」をうまく構成できなくなる状態なのですが、これは神経生理学的にはどのようなモデルとして説明できるのでしょうか。
この記事では「わたし」を多層的なものとして捉えた以下の論文をもとに説明していきます。
The neuroscience of body memory: From the self through the space to the others
わたしの6層構造
「わたし」という感覚があります。
ではあなたの「わたし」という感覚と2才児の「わたし」という感覚は一緒のものでしょうか。
おそらく、あなたの「わたし」には2歳時には含まれていないなにかがあるはずです。
では2才児と乳児の「わたし」は同じでしょうか?
小さい頃のことは覚えていないのですが、乳児の「わたし」感覚は2歳の「わたし」とはやはり違うような気がします。
こういった違いは具体的にはどのようなものとして示すことができるのでしょうか。
以下の図は今回参考にした論文をもとに作成したものですが
この6段階の「わたし」について説明していきたいと思います。
ボディスキーマの発達
ボディスキーマという言葉があります。
普段私達は歩くにしてもコップに手をのばすにしても、いちいち考えることがありません。
体の横から手が出ていて、腰の下に足が二本生えていて、前の方に手を伸ばせばこのくらいまで手を伸ばせるというイメージがあります。
当たり前過ぎてピンとこないかもしれませんが、あなたはムカデだとして自分が地面の上を這い回っている感覚をイメージできるでしょうか?
あるいはもし自分の体がイカだとして、獲物を10本の手で捉える感じをイメージできるでしょうか?
これがおそらく難しいのは、私達の脳の中にあるのはヒトとしてのボディスキーマであって、ムカデやイカのものがないからです。
運動の背後にはぼんやりとした身体のイメージ、枠組みのようなものがあります。
これがボディスキーマといわれるものですが、これはどのように発達していくのでしょうか。
出生時:原初の感覚、ミニマルセルフ、最小限の私(I)
私達にはいろんな感覚がありますが、これを大きく分けると
・内受容感覚:内臓感覚(お腹が痛い、胸がどきどきする、のどが渇いた、お腹が減った、など)
・外受容感覚:外部の刺激を感受する感覚(視覚、聴覚、触覚など)
・固有受容感覚:体の動きを感受する感覚(筋肉の伸び縮みや関節の曲がり具合など)
・前庭感覚:身体の傾きを感受する感覚(フラフラする、目が回る、身体が前に進んでいるなど)
といった分け方ができます。
「わたし」という感覚は後に述べるように身体が環境に関わり合う中でできていくのですが、生まれる前から構造的に脳に刷り込まれている「わたし」という原初的な感覚があります。
これは快や不快といった基本的な情動感覚に手足や体の曲がり具合、傾き具合が統合されてできる感覚で、この論文では「原自己」と位置づけられています。
主観的には「最小限の自己(Minimal self)」として経験され、客観的には「感覚的身体(The sentient body)」として表象されます。
生後 6ヶ月まで:空間の中の私(Where I am)
生まれてまもなく、赤ちゃんは膨大な量の情報に晒されることになります。
子宮の中では感じられなかった莫大な光や音、全身がタオルに包まれる感覚、揺り動かされる感覚、
近づいてくる足音や眼の前に迫ってくる乳首、体ごと持ち上げられる感覚
こういったものが相まって、赤ちゃんの脳の中では「空間の中にいるわたし」という感覚が醸成されます。
ここで出てくる「自己中心フレーム」という言葉ですが、端的に言えばこれは自分中心に世界を認知しているような認知パターンになります。
目の前のコップに手を伸ばすときは自分からどれくらいの距離があるかというので認知しますし、
愛する誰かを抱きしめるときも、自分を中心とした感覚でおそらくギュッと抱きしめるでしょう。
この「自己中心フレーム」は英語ではegocentric frameという言葉なのですが、この対義語にallocentric frame 「外部世界中心フレーム(あるいは他者中心フレーム)」というものがあります。
これは例えば立体迷路の中を歩いているときには、全体の中で自分がどこにいるのかを認知するでしょうし、サッカーで走り回っているときは自分がフィールドのどこにいるのかという感覚で認知するような感覚になります。
ごくごくざっくり言えば、それが右にあるのか、左にあるのかで判断するのが自己中心フレーム、
それが西にあるのか、東にあるのかで判断するのが外部世界中心フレームになります。
生後6ヶ月くらいまでは、足音が右の方からやってくる、左の方に乳首が見えるというように、様々な感覚が自己中心フレームでまとめられて「空間の中にいるわたし」という感覚が醸成されます。
これは主観的には「自分の位置(Self location)」として経験され、客観的には「空間的身体(The spatial body)」として表象されます。
生後7ヶ月以降:主体感、身体を動かす主体としての私
赤ちゃんも7ヶ月を回るとハイハイをしたり、物を掴んだり、立ち上がるようになったり、好き勝手動き回るようになって目が離せなくなります。
自分である程度身体を動かせるようになるのがこの時期ですが、
この時期には体の外から脳の中に入ってくる求心性の感覚情報だけでなく、脳から出ていく遠心性の情報が、自己中心フレームの中でまとめられていきます。
この時期には、床の上を這う、哺乳瓶に手を伸ばす、ちゃぶ台に掴まって立ち上あるなど様々な行動が見られるようになりますが、自分を取り囲む空間の中で自分の行動をコントロールしている感覚が発達してきます。
これは主観的には「主体感(Agency)」として経験され、客観的には「能動的身体(The Active Body)」として表象されます。
またこの段階は先の段階と合わせて「中核自己(Core Self)」として位置づけられます。つまり、どこかにいて何をするという感覚です。
このように、出生直後から生後7ヶ月以降のこの段階にかけて自己中心フレームに基づいた身体感、ボディスキーマが発達してきます。
ボディイメージの発達
さて、今度はボディイメージの発達ですが、そもそもこれはどのようなものなのでしょうか。
私達は鏡が大好きな生き物ですが、自分がどんな体型をしているのかというそれなりのイメージがあります。
背は高いのか、低いのか、太っているのか、痩せているのか、いろいろなのですが、
自分はこんな姿だという自分なりのイメージがあります。
こういったイメージは果たしてどのようにして、いつくらいの時期に出来上がってくるのでしょうか。
全身所有感(Me):全身を所有しているという自己認識
生まれてまもなく目が見えるようになって、自分の手足を動かせるようになって、これは自分の手、これは自分の足というように認識できるようになってきます。ところが不思議なことに赤ちゃんというのは鏡を見せてもこれが自分だということは認識できません。
自分の目から見た世界、一人称的な世界での「わたし」は出来上がってくるのですが、
外の世界から見た「わたし」というのはまだしっかりと出来上がっていません。
手がある、足があるというのは分かっているのですが、それに加えて、それらが全部つながった全身表象としての「わたし」という認識は24ヶ月以降になって発達してきます。
なぜこれが24ヶ月以降なのかというのは様々な議論があるのですが、大きくは2つの発達学的仮説が示されています。
一つは海馬が2歳になるまで未発達で、様々な出来事を記憶できないことが挙げられています。
いつ、だれと、なにを、どうしたかという具体的な記憶が積み重なって、一つの記憶として、一つのカラダを所有するわたしというのが出来上がっていくのですが、2歳になるまでは海馬が十分に発達せず、エピソードが記憶として定着しないことも一つの原因ではないかということが述べられています。
もう一つの説明としては模倣を行うためのミラーネットワークがしっかりと出来上がっていないためではないかということが述べられています。
ヒトは物まねをする生き物ですが、これを可能にする脳内ネットワークとしてミラーネットワークというものが提唱されています。
引用元:Iacoboni M, Dapretto M. The mirror neuron system and the consequences of its dysfunction. Nat Rev Neurosci. 2006;7(12):942‐951. doi:10.1038/nrn2024
赤ちゃんも大きくなって2歳をまわるといろんなモノマネが上手になってきますが、物まねをするためには3つの段階を踏むことが必要です。
1つは他者の動きを目で見て取り込むこと
2つ目は他者の動きを自分の身体地図に落とし込んむこと、
3つ目が落とし込んだ他者の運動を自分の動きとして実行すること、
なのですが
相手の全身の有り様を自分の中に落とし込むためには、やはり自分にも他人と同様、全身があるという感覚になります。
モノマネができるようになるのは2歳なので、発達学的に考えれば、私には手や足やお腹がつながった一つの全身があるという認識はこの時期にできるのではないかということが考えられます。
これは主観的には「全身所有感(Me)」として経験され、客観的には「個人的身体(The Personal Body)」として表象されます。
それでは物心がつき始める3歳前後ではどのような変化があるのでしょうか。
アイデンティティの始まり:客観化された自己(Mine)
さて、子供も2歳、3歳を回ってくると言葉も覚え、様々な情報が言葉を通じてインプットされていきます。
言葉を通じ、より頻繁になった他者との社会的交流を通じて、自分が何者なのかという意識が徐々に芽生えてきます。
それは「男の子」であったり、「女の子」であったり、白人、黒人、黄色人種という感覚かもしれませんし、客観的に「大きい」、「小さい」というような感覚かもしれません。
このように物心がつく時期には、客観的に自分の体はどのようなものなのかという感覚がこの時期芽生えてきます。
これは主観的には「客観化された自己(Mine)」であり、客観的には「客観化された身体(The Objectified Body)」になります。
では長じて4歳、5歳になってくると「わたし」のこころはどのような変化を迎えるのでしょうか。
恥とプライドの出現:身体的満足(Ideal Me)
私が客観的に見てなにものかという意識が2歳、3歳ころから芽生えてくるのですが、4歳、5歳になってくると自意識が発達して、恥の感覚、プライドの感覚というものが生じてきます。
社会というのは様々な価値基準から構成されています。
背が高いこと、痩せていること、顔が整っていることは素晴らしいなど様々な価値が言葉や行動によって子どもたちに伝えられ、
子どもたちはそれらの価値を内面化して自分を眺めるようになってきます。
はたして自分は社会的に認められるような姿かたちをしているのか、すぐれた身体を持っているのかという問いを抱くようになってきます。
自分の体は社会的規範に沿ったものなのか、そうでないのかという感覚が生じてくるこの時期は
主観的には「身体的満足(Ideal Me)」という感覚が生まれ、客観的には「社会的身体」というものが表象されるようになります。
このように子供も2歳を回ってくると、自分の目からだけではなく、他者から見て自分の体がどのようなものなのかを認知できるようになります。
このような視点は外部世界から自己を見る視点になりますので、この時期の自己認識は自己中心的(Egocentric)なものから
外部世界中心的(Allocentric )に移行し、ボディイメージというものが出来上がってきています。
上の図の右側に記してある「自伝的自己」というのは、
わたしは日本人で、わたしは背が高くて、わたしは足が早くて・・・といったいわゆる自分がなにものかという感覚としての自己なのですが、
この自伝的自己のバックボーンになるのが、他者の目を通じてみた自分であり、
他者の目が内面化される過程を通じて自分自身のボディイメージが出来上がってきます。
このように長い時間を通して出来上がる「わたし」の感覚なのですが、これらの感覚は連続的で発展的でありながら個別的でもあります。
では、これらの個別の「わたし」感覚が崩れたときにはどのような神経症状が出てくるのでしょうか。
精神疾患とボディマトリックス
上に示したように、「わたし」の身体感覚は客観的には
感覚的身体
空間的身体
能動的身体
個人的身体
客観化された身体
社会的身体
として分けて考えることができ、これらが連続的・発展的につながっていると考えることができます。
それでは、これらの身体感覚の何れかが機能しなくなった時、どのような症状が出てくると考えられるのでしょうか。
感覚的身体の機能不全に対応するのは、幻肢、
空間的身体の機能不全に対応するのは、半側空間無視、
能動的身体の機能不全に対応するのは、エイリアンハンド症候群、
個人的身体の機能不全に対応するのは、体外離脱体験、
客観化された身体の機能不全に対応するのは、ゼノメリア(身体完全同一性障害、自分の手足が自分のものと感じられずしばしば切断願望を伴う)、
社会的身体の機能不全に対応するのが、身体醜形障害
であるとの議論がされています。
自由エネルギー原理と階層構造
さて、自由エネルギー原理というのは聞き慣れない言葉ですが、これはもともと物理学の概念なのですが、
近年、意識や認知、注意といった機能を説明するためにも使用できることで注目を浴びているものになります。
この自由エネルギー原理を端的に言うと、私達はできるだけ自分の想定範囲に収まるように、言い換えればできるだけ驚かなくてすむように脳を使っているということになります。
ファーストフード店に行けば、システマティックにレジの人が対応してくれるのを期待し、そのように予期して、最適化した行動を取りますし(ショットバーならぬマクドナルドのカウンターで仕事の愚痴を話しだす人はいないでしょうし、それを聞いてくれるのも期待しないでしょう)、
休日の草野球のマウンドに立てば、あなたの脳は、自分の目や手足に働きかけてボールを素早く追いかけ捕まえられるようにしますが、この状態は休日ソファーの上でくつろぐときには明らかにオーバースペックでしょう。
このように私達の脳は、私達が置かれた状態に応じて私達のあり方を最適化しますが、このような最適化は階層的な構造をとっていることも考えられています。
先の草野球を例に取れば、ユニフォームを着てマウンドに立つことでで「野球だ!」という大きな枠組みの認知が生じ(高次概念)、
「野球」の枠組みで、ボールやバット、マウンド、ベース、その他諸々の個物が強調され認識されるようになり(高次視覚野)、
さらに丸いもの、四角いものなどのエッジやラインが強調されて見えるようになります(低次視覚野)。
お金持ちになりたかったら、お金持ちと同じような格好をして、同じような行動をしなさいという話も聞きますが、これは自由エネルギー原理による認知や行動の階層構造から考えると理にかなっていて、
より上流(高次の「わたし」認識;社会的身体)を変えることで、下流(低次の「わたし」認識;能動的身体や空間的身体、感覚的身体)のあり方が変わると考えれば辻褄は合うことになります。
ちなみに白衣を着るだけで試験成績が上がるという研究もあるのですが興味深いです。
加えて言えば、ホロコーストを生き延びた心理学者ミルグラムが行った実験でアイヒマン実験というものがあり、
白衣を着た権威がありそうな人に「あなたは教師ですので、生徒を指導してください」と伝えると、ごく普通の一般市民であっても
目一杯生徒役に強い電流を与える行動を取ることも報告されていますが、
これも高次の「わたし」認識が、低次の「わたし」感覚(感受性)や実際の行動を変える例として考えられるでしょう。
おわりに:自己と環境とボディマトリックス
これまで述べたように「わたし」感覚は個別的でありながら階層構造をとっており、置かれた状況によって「わたし」のあり方も変わってくるのですが、これはどのような図式としてまとめられるのでしょうか。
以下の図は、今回参考にした論文の図をもとにわたしが作成したものですが
参考元:Riva G. The neuroscience of body memory: From the self through the space to the others. Cortex. Fig.3
様々な「わたし」感覚が、一つのボディマトリックスとして統合されて、これが自分の近くを取り囲む環境と相互に関わり合うのですが、
周囲の環境への働きかけは、「意図」として
周囲の環境からのフィードバックは「存在」が生じ、
この「意図」と「存在」が交差する中で「自己」が生じるという図式が示されています。
すなわち「自己」というのは個体と環境の関わり合う狭間に生じるということで、
「自己」というのは、極めて現象的なものかなと思いました。
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