「身体化された認知はあなたが考えるそれではない」
今回取り上げる“身体化された認知”というテーマですが、正直これも概念がつかめるようでつかめきれてない感じがあります。
この“身体化された認知”というのは端的に言えば認知というのは脳だけでなされるものではないということではないかと思います。
例えば野球のことを考えましょう。
いつも試合や練習をしている球場と初めて行く球場ではおそらく同じプレーというのは難しいのではないかと思います。
たとえ同じ選手から放たれた同じようなフライボールが同じ放物線で同じ速度で、同じ距離で飛んできたとしても、おそらくそれをキャッチするときのパフォーマンスというのは、馴染みのないアウェイの球場では、おそらくうまくない。
これが球場ではなく、仮に屋内の広い体育館のようなところであればなおのことうまくないものとなる。
もし脳がすべてを計算して処理してくれるのであればパフォーマンスには大きな違いが出ないはずなのに、芝生のちょっとした感じや距離感が微妙に違うだけでパフォーマンスが大きく変わってしまう。
これは認知というものが脳だけではなくて、環境に依存したところが大きいからでないでしょうか。
あるいは歩行というものを考えてみましょう。
あるロボット、これは中枢制御装置も何もなく、あるのはヒトの関節を真似た一組の二本足模型なのですが、これは中枢制御装置がないにもかかわらず歩行や立ち直りが出るものがあるそうです。
つまり中枢なんかなくても体と環境があれば自動的に最適化された行動が惹起される。あたかも考えて歩いているようなパフォーマンスが出現する、そういうことがあるそうです。
さらにくどいようですが、最近見かけるものにクラゲの模型があります。
乱流を発生させた水槽の中にクラゲと見まごうばかりのクラゲロボットがゆらゆらときれいに泳いでいるのですが、当然これにも中枢制御装置というものはありません。
乱流とクラゲ特有のあの形があれば、クラゲの優雅な動作が出現する。
クラゲ模型動画
↓
https://www.youtube.com/watch?v=_CYaafGcMRc
あるいはマグロやカツオといった回遊魚。あれは誘導ミサイルのようにしなやかに水中で賢い動きをとると思うのですが、マグロやカツオの認知というものは、その独特のフォルムや水の粘性によるものが大きい。
もし水の粘土がもう少し粘っこかったら、おそらくマグロやカツオというのはあんなにはクレバーな動きは取れないかもしれない。
つまり認知というのは脳や神経があればいいものではない。
環境とそれと相互作用を起こす実物としての身体があって初めて認知というものが沸き上がってくる。
そんなことなのかなと思います。
どうにも歯切れが悪いのですが、今回取り上げる論文はこの身体化された認知についての概説になります。この論文で取り上げられた文献を元に進めて行きたいと思いますのでよろしくお願いします。
Embodied Cognition is Not What you Think it is.
「身体化された認知における6つの視点」
認知というのは何も脳だけで起こるのではない。
脳と身体と環境が複雑に絡み合うなかで立ち上がってくるものというのが“身体化された認知”仮説というものだと思います。
今回取り上げる論文はこの仮説のもととなる6つの主張について検討したものです。
これは
1)認知とは状況に位置付けられたものである。
2)認知は時間制約の影響を受ける
3)私たちは環境に認知を肩代わりしてもらう
4)環境は認知システムの一部である
5)認知は行動のためにある
6)オフラインの認知は身体に結びついている
というものですが、これを簡単に説明していくと
1)認知とは状況に位置付けられたものである。
というのは、何かを認知する時というのは必ず身体と環境を伴っているということです。
例えば引越しで物件探しをしている時を考えてみましょう。
どこに机をおこうか、本棚をおこうか、台所の使い勝手はどうだろうかと考えるためには実際に物件の中を見て回らなければなりません。
言い方を変えれば認知というのはそれにセットになる体と環境というものが必要で、これはおそらく“認知は状況に位置付けられたものである”という意味ではないかと思います。
2)認知は時間制約の影響を受ける
これは認知というのはいつまでやらなければならないという時間的なプレッシャーによって影響を受けるということです。
コンピュータならいつなんどきでも同じ認知かもしれないけれど、人間はどれだけ時間に追われているかで、認知も大分異なったものとなる。今すぐトイレに行かなければならない時と、別に行く必要性がないときではトイレ標識の認知も異なるでしょうし、こういうのは機械でできたコンピュータにはありえないのかもしれません。
3)私たちは環境に認知を肩代わりしてもらう
これはメモ帳でもカレンダーでもいいのですが、外部の物に認知を肩代わりしてもらうということです。脳の中だけで認知するのではなく外部デバイスに認知を肩代わりしてもらう、そういうことなのかなと思います。
4)環境は認知システムの一部である
これも認知には脳だけでなく環境が絡んでくるというものです。同じデートに行くのでは牛丼屋にいって丼をかっこむのと、夜景の綺麗なレストランでグラスを傾けるのでは、明らかに相手に対する認知が変わってくる。
あるいは緑色の部屋で入れば落ち着いて考えられるけど、赤色の部屋では落ち着いて考えられないということもあるかもしれない。
つまり認知というのは脳だけで完結せず、環境の影響を受けて立ち上がってくるということではないかと思います。
5)認知は行動のためにある
これは視覚や聴覚というのはそれ自体のためではなく、行動とセットになったものとして存在するということではないかと思います。端的に言えば必要な物が適切な程度に目に入ってくるし、耳に入ってくる、全て知覚は行動を最適化するためにあるということなのかなと思います。
6)オフラインの認知は身体に結びついている
認知というのは環境や身体と結びついてはいるけれど、必ずしも現存していなくてもいい。これはスポーツなんかのイメージトレーニングだと、大会で走っていると想像しただけで筋は収縮し、心拍数も上がってくる。つまり体を通して刻まれた記憶がオフラインでもシミュレーションしてくれる、そういうことなのかなと思います。
この論文では上記6つの視点について検討を行なったものですが、なかでもオフライン処理がもっとも大事ではないかということが述べられています。
Six views of embodied cognition.
「ヒトの動作観察ネットワークにおける体の動きと身体経験のそれぞれの基盤」
自分の身内におもちゃの開発に関わっているものがいるのですが、彼に言わせるとおもちゃというのはアフォーダンスが大事だそうです。
リハビリ分野で聞くことがあるこのアフォーダンスという言葉を畑違いの彼から聞いたのは驚きでしたが、このアフォーダンスというのは簡単に言うと「動作を引き起こす性質」のようなものだと思います。
たとえばコップであれば握りたくなるけど、目の前にUSBがあったら握りたいというよりもつまみたくなる、あるいはキーボードが目の前にあってこれを握ったりつまみたくなる人はあまりおらず、大概はタイピングという動作が誘発される。
こんな風にいろんな物品にはいろんな動作を誘発するようなはたらきがあるように思われるのですが、こういった性質を「アフォーダンス」と呼んでいるようです。
この論文は動作観察に関わる脳内ネットワークについて詳しく調べたものです。
私達は普段コップやキーボードといった物品だけでなく、他人のいろんな動作を観察して生きています。
歩いている様子やコップを取ろうとしている様子、台所でトントンお料理をしている様子など日々いろんな動作を観察しているのですが、脳の中にはこの「ヒトの動作」を処理するネットワークがあるそうです。
この研究ではダンスダンスレボリューションというダンスゲームを使ってこの「ヒトの動作」処理ネットワークについて調べたのですが、
結論を述べるとこのネットワークのある部分(腹側運動前野)は自分が事前にダンスの練習を行っておくと、ヒトの動きだけでなく抽象的な記号(ステップを示す矢印)にも反応することが示されいます。
コップを見ると握りたくなるような感じが誘発されるのは、ダンスゲームのステップサイン同様に、今までの運動経験によってコップという視覚刺激が「握る」というアクションの手がかり刺激になるためかなあと思いました。
エロスの4要素と脳の勃起中枢
歴史は夜作られるとも言いますが,古代中国やローマの歴史を読むに連れ,性というのは人を突き動かす随分なパワーがあるなあと思います.
このエロスというのは心理学的には4つの要素に分けられるようで,
それは認知,感情,欲動,身体の4要素と言われています.
この4要素というのは脳科学でどの程度切り分けて観察できるものなのでしょうか.
この論文は若い男性にエロティックな画像を見せている時,その見せ方でどのように脳活動が変わってくるのかを機能的MRIを使って調べたものです.
一つは6.6秒間,じーっと見せて,その時の脳画像を調べたものと,
もう一つは0.75秒間,パッと見せた時の脳画像を調べています.
結果を述べるとじーっと見せていたほうが後頭葉や頭頂葉の注意に関わる領域の活動が高くなること,
また補足運動野の活動が低下しているが,これは勃起の抑制と関係しているのではないかということが述べられています.
勃起は運動野で処理されるような,いわゆる「運動」なのかと思って調べてみたのですが,どうも運動要素があるようです.
ロンドンのタクシー運転手の海馬が一般人より大きいという研究がありましたが,ポルノ男優と一般男性ではたして勃起に関わる補足運動野の働きというのは違うのかなあと思いました.
「身体化における力動性:幼児の固執性のリーチ動作のおける場の理論」
当たり前といえば当たり前すぎるのですが、私達が日々の生活でなすことは動くことからなっています。
スマホをいじる、靴を履く、通勤路を歩く、切符を改札に通すなどなど・・
多くの動くことからなっている私達の生活ですが、この動くということは本質的にどういうことなのでしょうか。
この論文は、この動くことの本質について、あるモデルを提示したものです。
The dynamics of embodiment: a field theory of infant perseverative reaching.
赤ちゃんが物心の着いた子供になる過程というのは、見方によってはありとあらゆる動きを覚える過程だと思います。
その途中経過ではいろいろと興味深い現象が起こるようですが、今日の論文の対象となっているのは“A-not-B エラー”といわれる現象です。
これはAとBの二つの箱があって、繰り返しAの箱のなかにおもちゃを入れて、赤ちゃん(7ヶ月から12ヶ月)にそれを取り出させて遊ぶということをさせた後に、赤ちゃんが見ている前でAの箱に入ったおもちゃをBの箱に入れ替えます。
赤ちゃんは目の前でおもちゃが入れ替えられるのを見ているにもかかわらず、ついついAの箱に手を伸ばしてしまう、そんな現象だそうです。
なぜこういったことが起こるのかについてはこれまた長い議論があるようなのです。
理由としてはワーキングメモリの問題だ、抑制機能の問題だ、概念形成の問題だ、はては大人の意図を過剰に読み取ってしまうためだといろいろあるのですが、今日の論文ではもっとシンプルな形で説明がされています。
これはごく端的に言ってしまえば
“見ることと動くことは結びついている”
ということではないかと思います。
これを概念的に図示すると
見ること
⇅
計画すること
⇅
動くこと
⇅
思い出すこと
というふうに、ちょっとしたタイムラグを置きながら動きに関わる色んな要素がカップリングされて網の目のように結びついている。
おもちゃのはいっていない箱に手を伸ばすあかちゃんを笑いがちですが、私達も台所の調味料の位置を変えたのを知っているにもかかわらず、ついついいつもの場所に手を伸ばしてしまうということがあるのではないかと思います。
台所のようなある種の場というのは動作を誘発します。
台所でなければ使い慣れた自分の作業机でもいい。
あるいはタッチパネルのスマートフォンでもいい。
ある種の動きというのは環境とカップリングされているということはよくあるのではないかと思います。
この論文では、こういった関係性を“力動的な場”という言葉で説明し、箱を間違える赤ちゃんの現象だけでなく、広くわたしたちの動作全般に関わる性質のものではないかということが述べられています。
「”身体化された認知”仮説に対する批判的検討および概念内容の基礎づけに関する新たな提議」
Embodied cognition(身体化された認知)という考え方があります。
人はカタチのないものをあたかもカタチのあるものに置き換えて理解したりすることができます。心が”広い”、レベルが”高い”、”暖かみ”のある人柄、”苦い”経験などなど、”色々”あると思うのですが、ヒトというのは何か抽象的な事柄というのは身体的に認知できる形に落としこんで理解することができるようです。
こういうことから人の概念形成の基になっているのは身体感覚であるという考え方が導かれてきて、これが”身体化された認知”仮説というらしいのですが、
この論文はこの仮説と異なり、やはり抽象的な概念が非身体的な形で脳のどこかに何かの形で表象されており、この脳内表象と運動感覚システムが相互作用する中で具現化されるのではないかということが述べられています。
金槌についてうんちくを語る博識な失行症患者が金槌を使うことができない例として挙げられています。
「重度難読症:コネクショニストモデルによる神経心理学的症例検討」
今回取り上げるのは重度難読症についてのトピックです。
これは言語障害の一つらしいのですが、たとえば文字を読むにあたって激しく読み間違ってしまう、そんな症状のようです。
いろんなパターンが有るのですが、いくつか挙げると
①意味の間違い:夜→睡眠 と読み違える
②視覚的間違い:サンダルをシンボルと読み間違える
③機能的後の換字障害:“~から”を“~へ”と読み違える
などなどいろいろあるようです。
この症状は様々で定型的なものがないので“症候群”という括りにされることが多いのですが、なぜこういった多彩な症状が出てくるのかについて説明を試みたのが今日取り上げる論文です。
脳というのは計算機の例えで考えられることが多いようです。
それはそれでいいのだけれども、問題になるのは脳が計算機だとしたらどういった形の計算機かということです。
まずひとつ考えらるのは、直列的な計算モデルです。AがBを計算して、その結果をCに送って、それが更にDに送られてといったモデルです。
このモデルでいけば、リンゴを見た時にはリンゴに対応する脳の領域があり、車を見た時には車の脳の領域があり、下から上がってきた情報は自ずとその領域に収まって、「ああリンゴだ」だとか「ああ、ベンツだ」とかそういった形で情報処理される、そういったモデルが一つ、
もう一つはコネクショニストモデルと言って、もっとややこしい仕組みで情報処理されているのではないかというようなモデルです。
これは流行語というものがどうやって形成されていくかを考えてみましょう。
だれかが「今日からこの現象を~ということにする」というふうに決まるわけではありません。
構成員のだれかしが使ったり、使わなかったりするうちに、いつの間にかある現象を~と名付けるそんな空気が出てくる。
いろんな人のつながりにはハブになるような中心人物がいたりするものだけれども、そのヒトが言ったりしたりすることで、自然とスタンダードになっていく、そんな過程があるのではないかと思います。
だれかが決めるというわけでもない、でも皆が情報をやりとりする中で自然と雰囲気が形成されていく、そういった情報処理も普段日常であるのではないかと思います。
脳もこれと似たような形で言葉の学習をしており、それゆえあるハブを障害することで多彩な症状が出るのではないかということをコンピュータシミュレーションで示した研究があり、そのことについて深く検証したのが今回取り上げる論文の内容になります。
Deep dyslexia: A case study of connectionist neuropsychology
身体化された認知の発達:赤ちゃんに見る6つのレッスン
ある発達心理学者は人間の発達は死の直前、老年期まで続くものであるといったそうですが、人間の学習というのは実に息が長いものだと思います。
それにしても人間が持つこの“知性”というのはいったいどういうものなのでしょうか。
コンピュータも人間同様の知性を獲得することが可能なのでしょうか。
他者を説得したり、物事の本質を理解したり、自ら問題を発見したり解決したり、助けるべきか助けないべきかを判断したり、それが善いことなのか悪いことなのかを自分の頭で判断したり、そういったことができるのが人間の知性だと思うのですが、こういった知性というのはどうすれば発達させることが出来るのでしょうか。
“身体化された認知”仮説では認知というのは脳だけでなく、脳、身体、環境の3つの絡みあいから創発されるものとされています。
この論文はこの“身体化された認知”仮説に基づいた赤ちゃんの発達の特徴について6つの視点を取り上げたものです。
The development of embodied cognition: six lessons from babies.
これを以下に上げていくと
1 赤ちゃんは学習は多重的な感覚に基づく。
これは赤ちゃんがガラガラを振るときには音や重さ、視覚いろんな要素が感覚されるのですが、こういった多重的な感覚入力によって対象が認知される、そういうことではないかと思います。
2 赤ちゃんの発達は最初はもどかしいがその後は急速なものとなる。
赤ちゃんも学習しますが3ヶ月の赤ちゃんと12ヶ月の赤ちゃんでは学習の仕方が根本的に違います。なにが違うかというと12ヶ月の赤ちゃんは3ヶ月の赤ちゃんが学習した内容を利用してさらに新たな学習ができるという点で違います。学んだことを利用して更に新しいことを学ぶという雪だるま式の学習システムがコンピュータとは違う点ではないかと思います。
3 赤ちゃんの知性は環境と身体のかかわり合いの中から生み出される。
これは言わずもがなで、黙っていても赤ちゃんの学習は促されない、体を使って環境と関わる中で様々な学習がなされていくということだと思います。
4 赤ちゃんは探索することで自ら問題を発見し、自ら問題の解決方法を発見する。
コンピュータは決められた問題を解決するのは得意ですが、何が問題かということを発見できるのはヒトの特徴の一つです。赤ちゃんはあれこれ好き勝手に手を伸ばし、いろんなものを操作する中で問題を自ら発見し、問題を自ら解決していきます。
5 赤ちゃんは成熟したパートナーの指導のもと、社会的な世界を学習していく。
これは社会的な学習は自分一人では出来ないということです。社会性を獲得するためには身近な他者が必要だということだと思います。
6 赤ちゃんは言葉を学ぶ。言葉は概念を表象する共有的なコミュニケーションシステムだがこの言葉の獲得によって抽象的な思考、推論が可能となる。
いろんな感覚を使って対象と関わることで言葉を学習しますが、この言葉の獲得によってより高度な知性を発達させることが出来ます。
以上のように赤ちゃんは個体と環境のかかわり合いの中で知性を発達させていくことが6つの論点から説明されています。
「被服化された認知」
最近はあまり効かなくなりましたが「馬子にも衣装」という言葉があります。
これはあんまりパッとしない人でもいい服を着ればそれなりに見えるということだと思います。
衣服には人を騙す力があると思います。
白衣を着ていればなんとなく頭が良さそうに見えるし、苦みばしったスーツにサングラスをかけているとなんだかおっかない人に見えてしまう。
着ている服で見ている人のイメージを大分変えてしまうということがあると思うのですが、今日取り上げる論文は、見ている人でなく、着ている人の実際の能力まで変わってしまうのではないかということを調べたものです。
もう少し簡単に言うと着衣による“なりきり効果”について調べたものです。
実験では被験者に実験室で使うような白衣を着せて注意力テストを行ったのですが、やはり白衣をつけたほうが注意力が向上することが示されています。
また同じ白衣でもこれはお医者さんのだよと言われたほうが、画家のものだよといわれた時より高い成績を出すことが示されています。
衣服というのは象徴的な意味があり、これを実際に着ることで人は心理機序において影響を受ける。
この実験で示されたこのような機構を“身体化された認知(embodied cognition)”ならぬ“被服化された認知 (enclothed cognition)”という言葉で説明しています。
まとめ
このように認知というのは脳の中だけで終わるものではなく、身体や環境と絡み合って創発される現象のようです。
そして記憶や環境が身体化されるという、この「身体化された認知」仮説に立てば、リハビリテーションの現場で一日数千回はやり取りされている会話、
「家に帰れば出来るようようになるからいいんだ!(患者)」
「病院でできないことは家でできるわけ無いでしょう!(セラピスト)」
の会話においては患者の方に案外分があるかもしれません。
カラダや記憶、認知の偏りというのはそのヒトの人生そのものであり、
センスのあるセラピストは意識的にか無意識的にか、その辺をつかめているのかなと思いました。
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