目次
はじめに
人は誰もが喜びや悲しみ、怒りなどのさまざまな感情を持っています。これらの感情は、私たちの日常生活や人間関係において重要な役割を果たしています。
ところが、時として自分の感情がどのようなものなのかがわからなくなることがあります。このような状態は「失感情症」(アレキシサイミア)と呼ばれています。失感情症の人は、自分の感情を理解することが難しいだけでなく、周りの人の気持ちを感じ取ることも困難になりやすいことがわかってきました。
最近の研究では、なぜ失感情症の人が他者の気持ちを理解するのが難しくなるのか、そのメカニズムが少しずつ明らかになってきています。この記事では、失感情症と他者への共感がどのように関係しているのか、最新の研究結果をもとに説明していきたいと思います。
共感性とは?
私たちは日常生活の中で、さまざまな場面で他者の気持ちに共感しています。例えば、泣いている子どもを見かけると自然と心配になったり、頑張っている友人の姿を見て応援したくなったり。このように、他の人の気持ちを理解し、同じような感情を感じることを「共感」と呼びます。
共感を表す言葉には、英語で”sympathy”と”empathy”という2つの種類があります。sympathyは、「相手の気持ちを理解して思いやる」というもので、例えば困っている人を見かけて「大変そうだな」と感じ、何か手助けができないかと考えるような場合です。一方empathyは、より深い感情的なつながりを示し、「相手の気持ちを自分のことのように感じ取る」という状態を表します。例えば、友人が失恋して落ち込んでいるときに、まるで自分のことのように胸が痛むような感覚です。
このような共感する力は、実は人間だけでなく動物にも見られます。特に母親と子どもの間や、群れで生活する動物たちの間では、お互いの気持ちを察し合う行動が観察されています。しかし、人間の場合は特に高度な共感能力を持っており、これが私たちの豊かな社会生活を支える重要な要素となっているのです。
失感情症とは?
失感情症は、自分の感情をうまく認識したり、言葉で表現するのが難しい状態を指します。これは珍しいものではなく、一般の人の約10%に見られるとされています。特に、自閉症スペクトラム障害(ASD)の方々では40~65%と非常に高い割合で見られ、また、うつ病や摂食障害、統合失調症を持つ人にも多く報告されています。
この状態の特徴として、以下のようなことが挙げられます:
- 感情を認識・表現するのが苦手: 例えば、自分が怒っているのか悲しんでいるのか、または怖がっているのかがわからず、「何か感じているけど、それが何なのか分からない」と言うことがあります。
- 他人の気持ちに共感しづらい: 誰かが悲しんでいたり困っていても、その感情を自分のものとして感じ取ることが難しく、逆にその状況を見て自分が不快に感じることがあります。
- 体に症状が現れることもある: 感情を処理できないことで、胃痛や頭痛といった身体的な不調として表れる場合があります。
失感情症の人は、自分の気持ちを理解するのが苦手な分、他の人の感情を感じ取る力も弱くなりがちです。ただし、多くの場合、感情そのものを理論的に考えたり理解したりする能力は保たれており、感情認識が苦手なだけで全てがわからないわけではありません。さらに最近の研究では、この状態が脳の仕組みと関係していることも分かってきています。
失感情症の脳基盤
失感情症では、自分の感情を認識する力が低下しますが、これに関連する脳の領域として「前帯状皮質」と「前部島皮質」の2つが重要な役割を果たしていることが分かっています(Bird & Cool, 2013)。
まず、1つ目の 前帯状皮質 は、外部や内部の変化に気づく役割を担っています。視覚的な刺激でいえば、珍しいものが視界に入ったときに気づいたり、身近な人が嘘をついているときに「何かおかしい」と感じたりするのに関わっています。この働きは、外部の情報だけでなく、身体内部の変化にも同様に機能します。
例えば、好きな人に会って胸がドキドキしているときに、自分の心拍数の上昇をキャッチして「緊張している」と気づくことができます。また自分な大事なものを奪われて体がワナワナと震えていることに気づいて、自分は「怒っている」と気づくことができます。
人間の体は喜怒哀楽に応じてさまざまな身体的変化を起こしますが、前帯状皮質はこれらの変化を感知し、自分の感情に気づく手助いをしています。しかし、失感情症の人では、この前帯状皮質の働きが十分に機能していないことが明らかになっています。
次に、2つ目の 前部島皮質 は、主観的な感覚に深く関与しています。例えば、温かいお湯に触れたとき、「このお湯は39度だ」と分析する前に「あたたかい!」と感じることや、高級なワインを飲んだときに「このワインはタンニンが多い」と評価するよりも先に「おいしい!」と感じる経験が挙げられます。
この領域は、こうした客観的な評価とは別に、私たちが直接感じる「心地よさ」や「感覚」を司っています。これがあるおかげで、自分の体や感情をリアルに感じ取ることができるのですが、失感情症では、この前部島皮質の活動も低下していることが報告されています。
つまり、失感情症では「感情に気づく力」を担う前帯状皮質と、「感情を実感する力」を支える前部島皮質の2つの領域の働きが弱まっているのです。この2つの機能低下が、自分の感情をうまく認識したり表現したりできない理由の一つと考えられています。
失感情症と共感能力の関係性
失感情症と呼ばれる状態は、共感する力にどのような影響を与えるのでしょうか。2017年にValdespinoらの研究チームが発表した論文によると、私たちが誰かに共感するときには、主に3つの段階を経ることがわかってきました。
第一の段階は、相手の気持ちを想像することです。相手の表情や置かれている状況から、「この人は今どんな気持ちなのだろう」と考えます。例えば、友人が試験に合格して喜んでいる様子を見たとき、その状況や表情から相手の気持ちを推し量るような過程です。
第二の段階では、想像した相手の気持ちが自分の体に反応として現れてきます。例えば、誰かが悲しんでいる場面を見ると、自分の胸が締め付けられるような感覚を覚えたり、逆に誰かが嬉しそうにしていると、自然と自分も心拍数が上がったり、表情がほころんだりすることがあります。
第三の段階では、自分の中に生まれたその感情を理解し、「これは喜びだ」「これは悲しみだ」というように名前をつけます。この段階が、相手の気持ちを本当の意味で理解することにつながります。
しかし、失感情症の人は、特にこの最後の段階が難しいことがわかっています。自分の中に生まれた感情が何なのかを理解したり、それを言葉で表現したりすることが困難なのです。そのため、他の人の気持ちを理解することも難しくなります。
まとめ
では、ここまでの内容をまとめてみましょう。
・失感情症とは自分の感情を適切に認識することが難しくなる状態である。
・そのため、自分の感情のみならず、他者の感情を認識することも難しくなり、共感性の低下につながる。
・「気付き」に関わる前帯状皮質や、主観的感覚に関わる前部島皮質の機能低下が原因として考えられている。
このように、共感する力の低下には失感情症が大きく関わっていることがわかってきました。しかし、これはメカニズムの一部に過ぎません。失感情症と共感の関係には、上記以外にもさまざまな脳の部分が関係していると考えられています。
次回は、共感に関わる脳の仕組みについて、さらに詳しく掘り下げていきたいと思います
【参考文献】
Bird, G., & Cook, R. (2013). Mixed emotions: the contribution of alexithymia to the emotional symptoms of autism. Translational psychiatry, 3(7), e285. https://doi.org/10.1038/tp.2013.61
Valdespino, A., Antezana, L., Ghane, M., & Richey, J. A. (2017). Alexithymia as a Transdiagnostic Precursor to Empathy Abnormalities: The Functional Role of the Insula. Frontiers in psychology, 8, 2234. https://doi.org/10.3389/fpsyg.2017.02234