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「かぼちゃのつる」:授業参観デビューと道徳教育
人生やたらと寄り道、回り道が多く気がつけば44歳、
先日はじめて小学に上がったばかりの息子の授業参観というものに行ってきた。
科目は道徳、「かぼちゃのつる」というお話を読んで寸劇を交えて発表し合うというものだった。
この「かぼちゃのつる」というのがどんな話かというと
冒頭の「わがままばかりいうとどうなるかな」というような文言の後に
①ある畑にかぼちゃのつるがうわっていました。
②どんどん伸びて隣の畑や道路にも伸ばしていきました。
③すいかさんやミツバチ、蝶々さん、イヌさんに注意されますが、かぼちゃは言うことを聞きません。
④最後にかぼちゃのつるは道路で自動車につるを切られて泣いてしまいました。
という筋立ての話が示されている。
つまりは自分のやりたい放題ばかりやっているとひどい目にあうので、自分を抑えなさいという筋立てなのだが、この話を聞いているあいだじゅう、ずっと欲望とはなにかとか、倫理とは何かとか、社会とはなにかとか、あるいは道徳教育の本質とはなにかとか、ひたすら考えること、つっこむことが山盛りで非常に有意義な45分間となった。
しかしながら、さて「道徳」とは何なのだろうか。そもそもかぼちゃは本当に悪いのだろうか。また悪いとしたら「悪」とは何なのだろうか。
「かぼちゃのつる」に感じる違和感の正体
人間というのは生まれながらに厄介な生き物だと思う。
何が厄介かというと、「個体としてよりすぐれたい、成長したい」という進化の過程で獲得した情動と
「人はみな平等であるべき」というホモ・サピエンスになって獲得した情動の2つを持っているからだ。
この2つは矛盾した感情であり、普通に考えたら両立し得ない。
つまりヒトとして生きるというのは基本的に無理ゲーを生きることである。
Quara: 人の本性として平等を求める性向と人より優れたいという性向がありますが、この矛盾した性向をともに満たすシステムというのは構築することができるのでしょうか?
では両立し得ない矛盾があるというのは悪いことなのだろうか?
いや決してそうではないだろう。
早く移動したいけど、疲れるのは嫌だという矛盾した欲望があるからこそ、ヒトは自動車や電車、飛行機というものを作り上げてきたし、
身内を殺したアイツを殺したいけど、自分はリスクを背負いたくないという矛盾した欲望が刑法制度を数千年かけて練り上げて、
偉くなりたいけど平等でありたいという矛盾した欲望が、不完全ながらも近代民主主義というものを作り上げてきた。
哲学者の言う弁証法でもないけれど、欲望の否定は変化発展の否定だろう。
浴槽の中が冷たい水だけだと何も起こらないけれど、異質な温度を持つ熱いお湯と冷たい水が混じり合うことで対流がうまれ動きが生じる。個人の欲望を抑えるだけではそこに社会のダイナミズムは生まれない。果たしてそれでいいのかどうか。
かぼちゃが自分のポテンシャルを生かしきりたいという欲望と既存のルールをすり合わせるにはどうすればよかったのだろうか。
枝を立てて上に伸びる、自分の畑を効率化する、他の畑と話し合って実ったかぼちゃを分配する形にする、既成権益が確立されていない他のフィールドに活路を見出す、政治家になって自分に有利な特別条例を作る、いろいろあるだろう。
果たして自分自身のポテンシャルを抑えて周りと合わせるのが「正しい」ことなのだろうか。
倫理とはなにか
そもそも「正しい」、言い換えれば倫理とは何なのだろうか。
以前にも書いたが、倫理とは本質的には「生き延びる」ことだろう。
人の体というのは非可逆的だ。
エントロピーの法則に逆らって元気でいられるのも僅かな間、
遅かれ早かれ、この体は不可逆的に傷つき、壊れ、死んでいく。
否応なく傷つき、壊れていき、それを自覚できるからこそ、私達の生というものに価値が生まれ、
その価値を守ろうと様々な技法が生まれる。
盗むな、殺すな、姦淫するな、
いろいろあるが言わんとするのは「生き延びるための技法」だろう。
もし学校が生き延びるための術を学ぶ場所で、道徳の授業もその一環であるならば教えている内容は決して間違いではないのだろう。
自分の欲望を抑え、皆と同じように振る舞うことは生き延びるための第一条件だ。
そうしていればこの時代のこの国では高い確率で生き延びることができる。
でも生き延びることができてもおそらく生を謳歌することはできない。
仕事で出会う社長さんたちは皆魅力的である。
彼らはルールというものを自分のために使うことはあってもルールに盲従することはない。場合によってはルールそのものを変えようともする。
彼らはルールは強者の下で弱者が生き延びるためのものだとういうことを理解しているように見える。
とはいえルールと倫理は似ているようで少し違う。
倫理は教えられるか?
ではこの倫理というのは教えられるものなのだろうか。
こんな事を考えたのはどうも私一人ではないようで、遠い昔あるおじいさんがこれについて深く論及している。
結局の所、彼も倫理が何かを十分には定義できず、いままで定義できた人もおらず、それゆえ教えられるものではないと結論づけている。
では道徳を教える先生は、果たして教えられないものを教えようとして苦労しているのだろうか、それとも教えている内容はバチ物で倫理そのものではないのだろうか。
授業参観が終わって悶々とそんなことを考え続け、午後息子が遊ぶ公園に娘を連れてでかけてみた。
どうしたことか、息子が年上の男の子数人に滑り台の前で絡まれている。
どうやら息子が水遊びのいたずらで滑り台の降り口に水をかけたのが問題らしい。
少し離れたベンチで様子をうかがうと息子は「ごめんなさい」といって降り口の水を周りの子にこづかれながらきれいにしている。
一通り水を払い終わって「僕帰るね」と自転車に乗ろうとする息子にジャイアン的なポジションの子に促されたスネ夫的なポジションの子が「おい待てよ!」と掴みかかる。
これは行き過ぎだなと思って、スネ夫くんに近づいて
「息子には私の方からまた注意しますね、きちんと拭けていないところは私がやっておきます。でもね、君のやっていることはあんまりかっこよくないと思うよ。」と伝え、息子を逃した。
ソクラテスより知能が低い私は未だに何が正しいことで正しくないのかを知らない。
ただ直感的になにがかっこいいことでかっこ悪いことか、
いいかえれば何が美しい行いで美しくない行いかというのは理解できる。
興が冷めるような話で恐縮だが、乳幼児を対象にした研究でも△くんが○くんをつついている動画を見ると△くんを嫌がるようになるという実験がある。
美しいものを見れば私達は何も教えてもらわずとも美しいと直感的に感じる。
善悪が何かというのも、美醜の感覚と一緒で本当はだれからも教えてもらわずとも本当は私達は生まれながらに知っているのではないか、
大人が子供に伝えられるのは教条的な善悪ではなく、
ただ言葉の彼岸にある美しい振る舞いだけなのじゃないのかと思いついたりした。
正しく生きることは難しいけれど、美しく振る舞うこと、
それができないならば、ためらいを持ちながら極力醜くない振る舞いを選ぶことができる。
美しく生きることがハゲチャビンのおじいさんが言うように神の思し召しによる特別な才能であるならば
我々凡人ができるのは、おそらく限られた知能をもとにためらいながら生きていくことなのかなと思ったり、
おそらく公教育に憑かれている就かれている先生たちはきっと特別な才能やためらいをもっているのだろうなと思ったりした。
ふと、帰りがけ覗いた隣のクラスの先生の顔を思い出す。
息子があの先生は優しいといっていたその哲学者じみた風情の女性教師は、思いの外随分といかめしい顔をして伝達事項を生徒に伝えていた。
生徒が大きな声で「はーい!」と応えると、猫背の背中で独特な苦笑いをしているのが印象的だった。
哲学者がしばしばヤクザじみていると思われるのは、彼らはきっとこの世が茶番劇なのを知っていて、あえてそれを口にだすことがあるからだろう。
茶番を茶番とわかった上でためらいを持ちながら演じきる度量も大事だとしたら、やはり私は先生には向いていないのかもしれない。