目次
自己主体感とはなにか?
「わたし」とは何かというのは、これから先人類が一生付き合っていくような謎だと思うのですが、私達は健康な状態であれば、自分は自分だという感覚を持っています。
ワタシが見て、ワタシが考えて、ワタシが動く。
これは当たり前にようにも感じられますが、統合失調症や脳卒中では容易にこのような感覚が崩れてしまうことも知られています。
果たして私達のココロ、自意識というのは脳の中でどのように表現されているのでしょうか。
この記事では主体感をテーマにした脳科学分野の重要な研究を取り上げます。
主体感と脳機能
身体的なワタシ感覚?
普段生活していて私のカラダは私のものである、私が私のカラダを動かしているという感覚は当たり前すぎて疑問にもなりませんが、本当にそれはそうなのでしょうか?
この論文はこの身体的なワタシ感覚についてに述べたものです。
What is it like to have a body?
この論文によると身体的なワタシ感覚というのは一枚岩なものではなく
細かく見ると
①身体所有感(この体はワタシのものだという感覚)
②運動主体感(ワタシがこのカラダを操作しているという感覚)
③展望館(ワタシがこの世界をみているという感覚)
といったサブユニットからできているようで
それぞれ①、②、③の感覚を実験で操作すると
他人のカラダを自分のもののように感じたり
あるいは幽体離脱のように自分のココロが自分のカラダにないような感覚になったり
いろんな現象が起こるそうです。
こういった様々な感覚はそれぞれそれに対応するような脳のサブシステムとつながっているようで
一枚岩と思われる「ワタシ」感覚というのは様々な感覚の集合体で案外融通無碍なのかなあと思いました。
「コントロールの感覚:主体的経験の神経基盤」
あまりに当たり前のことなのですが、私たちは自分が自分のカラダの主人だと思っています。
手を上げれば「自分が手を上げた」という感覚がついてくるし、ボールが蹴れば「自分がボールを蹴った」という感覚がついてくる。
これはあまりに当たり前のようなきがするのですが、こういった感覚は統合失調症では時に「だれかが自分のカラダを動かしている」と感じることもあるそうですし、
脳卒中になると自分の意志とは裏腹にかってに手が動いて何かを掴んでしまうという現象もあり、
こういったことを考えると、いつでもどこでも私たちは私のカラダは自分が動かすと感じるとは言い切れないのではないかと思います。
この論文は自分が自分で体を動かしている感覚が立ち上がるには脳のどの辺が大事なのかについて調べたものです。
Feeling in control: Neural correlates of experience of agency.
結果を述べると脳の中でも運動の準備に関わる補足運動野と呼ばれる部分が大事なようで
ここには
運動指令
↓
補足運動野→
↑
運動の結果得られた感覚
というふうに運動の命令と、その結果得られた感覚が統合されるような場所にあたるようで、こういったことからこの補足運動野近辺の領域が「私が私の身体を動かしている」という感覚が立ち上がる上で大事なのではないかということが述べられています。
自己意識はどこで生まれるか?
私たちは自分のカラダが自分のものであると信じて疑いませんが、脳科学的に考えると、これはどういう理由によるものなのでしょうか。
私たちの脳はいろんな情報を扱いますが、その主なものに視覚情報(見えた!)や触覚情報(触れた!)などがあります。
これは例えばリンゴを触った時には目で見て自分の手がリンゴに接触するのとほぼ同じタイミングで
指先からはリンゴと指が接触したという情報が脳に送られます。
この「同じタイミングで」というのがキモで
このタイミングがずれて
たとえばリンゴに触れたのを見て2秒後に指先がリンゴに触れた感覚が上がってきたら「自分のカラダは自分のもの」という感覚はどこかおかしくなるのではないでしょうか。
こういった状況を人為的に作り出す実験としてラバーバンドイリュージョンというものが知られているのですが
統合失調症患者は健常者と比べてこの実験の効果が高くなることが知られています。
この論文は統合失調症と似たような症状を引き起こす薬を摂取した時にこのラバーバンドイリュージョンの効果がどうなるかについて調べたものです。
Exploring the impact of ketamine on the experience of illusory body ownership.
結果を述べると、やはりこの薬剤の摂取でラバーバンドイリュージョンの効果が強くなることが示されています。
「わたしはわたし」という意識は結構微妙なバランスの上に成り立っているのかなあと思いました。
影としての「わたし」感覚
普段私たちは当たり前に自分の意志があると思っています。
これは例えば、目の前の茶碗に手を伸ばすにあたって自分の意志がある。
その後それにしたがって体が動く、そんなふうに考えていると思うのですが、いろんな実験によるとどうやらそれは怪しいようです。
これはどういうことかというと
意思→脳活動→運動
というような流れではなくて
脳活動→意思→運動
というように自分が動こうと思う前から勝手に脳は動く準備をしていて、自分が動こうと感じているのは、ただの脳活動の追認にすぎないということです。
自分が思おうが思うまいが、勝手に脳は活動していて私たちにできるのはそれを追認することだけだというのがどうやら本当のところのようですが、これは具体的にはどのような仕組みになっているのでしょうか。
この論文はこのテーマについてのものです。
何か運動を行う時というのは脳活動の流れで行くと
運動の選択(どの運動をするのかを選ぶ)
↓
運動の準備
↓
運動の実行
というような流れになっているのですが
運動の選択(どの運動をするのかを選ぶ)
↓
運動の準備
の流れの中の運動の準備に入ろうとするその狭間に「動こう!」という心理的感覚が立ち上がるのではないかということが述べられています。
はたして「わたし」というのは後付的な影のようなものなのかなあと思いました。
「推理小説?主体的判断の電気生理学的相関」
風が吹けば桶屋が儲かるではないのですが私たちニンゲンは何かと理由を付けずにはいられない生き物です。
桶屋の例までいかなくても味噌汁をもった茶碗をひっくり返して汁が溢れればそれは自分のせいだと思うし(妖怪汁こぼしのせいだとは思わない)、ビリヤードの玉がまっすぐに転がらなければ突っつき方が良くなかったんだろうなと因果づけて考えます(友達の念力で曲がったとは考えない)。
こんな風に人間は自分のやることなすことに「ああしたからこうなった」というように自分のやったことと結果を因果づけて考える癖があるのですが、これは脳科学的にはどういったものとして捉えられるのでしょうか。
これは例えば左手に持ったタンバリンを叩いているところを想像してみましょう。
あなたが右手でタンバリンを叩けば「パーン!」という音が聞こえてくるはずです。
脳の中ではまず
「何かが変わった(音場が変化した?)」というボンヤリした感覚が立ち上がり
その少し後に
「わたしがタンバリンを叩いたから音場が変化した」
というようなハッキリとした判断が立ち上がります。
この論文は脳波測定を使った研究なのですが
Whodunnit? Electrophysiological correlates of agency judgements.
「AをしたからBになった」という因果的な判断はボンヤリした感覚だけでもだめだしハッキリとした事後的判断だけでもだめで、両方のボンヤリとハッキリの両方の感覚が大事であることが述べられています。
「ネガティブな感情は随意的な運動に伴う運動主体感を減弱させる」
ヒトは自分勝手な生き物です。
私はゴルフがやったことがないのですが、おそらくゴルフで上手くボールが飛んでいった時には自分のせい、上手く飛ばなかった時には天気や道具のせいにすると思うのですがどうなんでしょうか。
なにもゴルフに限らず上手くいった時は自分のせい、上手くいかなかった時は他人のせいにしたがる癖があると思うのですがこれは脳科学的に考えるとどういうふうな解釈ができるのでしょうか。
ゴルフでスイングするようなときには自分で自分のカラダを動かしているという感覚があると思うのですが、これは専門用語で運動主体感という言葉で呼ばれているようです。
この論文はこの運動主体感と感情の関係について調べたものです。
Negative emotional outcomes attenuate sense of agency over voluntary actions.
結論を述べると何かの動作にに対してポジティブなフィードバックが返ってくると運動主体感が高まり、
これに対しネガティブなフィードバックが返ってくるときには運動主体感が低くなることが報告されています。
気分があまりに鬱々しているようなときにはまるで自分のカラダが自分のものではないような気分になりますが、運動主体感というのはやはり感情と結びついたものなのかなあと思いました。
意図による束ね(intentional binding)とは何か?
私たちはみたまんま、感じたまんまを世界のありようだと考えてしまいますが、脳というのは世界をそのままに写すわけではなく
状況に応じていろいろとバイアスを掛けてリアルそのものをいろいろと加工編集して意識に現すことが知られています。
よく聞くのは錯覚のようなものだと思うのですが時間感覚についても脳は錯覚現象を起こすことがあるようです。
その中でも”意図による束ね(intentional binding)”という現象があり、
これは自分で意図した動作に関しては時間を短く感じる現象だそうです。
例えば二人羽織りをした時を考えましょう。
こんな時は自分のカラダが他人の意図で動くのですが、なんだかご飯を取るにしても箸を持ち上げるにしても間延びしてタイミングが合わないような感覚があります。
これは普段行っている意図した動作というのは実際の時間より短く感じるということで
ボタンを押す→→→(0.5秒;実時間)→→→ブザーが鳴る
という現象があった場合
二人羽織りでボタンをおす場合、リアルそのまんまに
ボタンを押す→→→(0.5秒;心象時間)→→→ブザーが鳴る
というように感じられるのに対して
自分の意図でボタンをおすような場合には
ボタンを押す→→→(0.3秒;心象時間)→→→ブザーが鳴る
というように心象時間が短くなる現象があり、このような現象が”意図による束ね”と言われているようです。
この論文はこの”意図による束ね”が変化しうることを示しています。
Cue integration and the perception of action in intentional binding.
時間間隔にかぎらず私たちの意識というのは実世界の写しではなく大分編集加工された世界をリアルと思い込んでいるだけなのかなと思いました。
「運動主体感に関わるオンラインの神経基盤」
普段私達は当たり前のように自分たちの体を動かして、これが自分の意志であることを疑いませんが、こういった感覚は脳科学的に考えるといったいどういうものなのでしょうか。
私達は自由自在にからだを動かすことができる、私達が自分の体の主人であるという感覚は専門用語で運動主体感と呼ばれるようですが、今日取り上げる論文はこのこの運動主体感について調べたものです。
こういった感覚はいつでもどこでもあるものではなく、脳卒中になると時に自分の体が自分のものではないように感じられることもよくあります。
あるいは脳卒中でなくても、初めて車を運転するときや初めて楽器をひく時には、きっと思うように自分の体が動かない、つまり運動主体感が少ない感じになるのではないかと思います。
この論文によると運動主体感というのは、運動がなされる前の段階で生じているのではないかということが述べられています。
これがどういうことかというと、ピアノにしても格闘技にしても運動というのは一思いにいっぺんに出てくるものではありません。
工場で製品が出荷される前にいろんなプロセスがあるのと一緒で脳の何かを運動しようとするときには
プロセスA(下処理A)
↓
プロセスB(下処理B)
↓
プロセスC (製品出荷:実際に体を動かす)
というように複数のプロセスを踏んで初めてからだを動かすことができます。
この論文によると運動主体感というのは運動が実際になされる前の段階がスムーズに行われている時によく感じられることが述べられています。
An online neural substrate for sense of agency.
初めて車を運転する時や初めてピアノを引くときには運動以前のプロセスがごちゃごちゃして決してスムーズなものではないでしょう。
それゆえ初めて何かするときには運動主体感というのが少なくなるのかなあと思いました。
運動主体感と頭頂葉
「動作の意図から動作の効果へ:運動主体感はどこから来るのか?」
私達は日常いろんな運動をします。
歩いたり投げたり話したり手を伸ばしたりといろいろですが、私達はこういった運動が自分の意志で行われていることを疑いません。
しかしながらこの「自分が自分の体をコントロールしている感」というのはどこからくるのでしょうか。
この「自分が自分の体をコントロールしている感」は専門用語で運動主体感と呼ばれているのですが、この感覚が出てくる仕組みとしては大きくは二つの考え方があるそうです。
ひとつは後付的なものです。つまり実際に体を動かして自分が思った通りに動けた時に「ああ、自分は自分の体を思うように動かせている」というふうに運動主体感が生まれる。
もう一つは先取り的なものです。これは自分が体を動かそうとする最中ににわかに立ち上がってくるような「自分は自分の体を動かしている」という感覚です。
これは例えばピアノを引いている時、自分が弾いた音が自分の思った通りなのを確認して「私は今思ったように指を動かせているわ」と感じるのは少し変でしょう。自分の体を自分が思ったように動かせているという感覚はもっとリアルタイムなものでしょう。
きっと弾いている最中、弾こうとする最中に「私はわたしの指を思い通りに動かしている」という感覚が立ち上がるでしょう。
この論文によると脳の中には先取り的にこういった運動計画を察する部分があり、先取り的に「わたしは私の身体を動かしている感」が生じることが述べられています。
From action intentions to action effects: how does the sense of agency come about?
「主体者としての感覚」
普段私達は自分のカラダは自分のもので自分のカラダは自分が動かしているということを信じて疑いませんが、なぜ私達は「わたし」がこのカラダの主だと感じるのでしょうか。いやそもそも「わたし」とはいったい何をさして「わたし」なのでしょうか?
このワタシ感覚はいつでもぶれない絶対強固なものでもなく
統合失調症になると「他人が自分のカラダを動かしている」と感じるそうですし、脳卒中になると時に「この足はウチのばあさんのもんだ」と言い出すこともあります。
あるいは思い鬱病や強いショックを受けて茫然自失といった時には自分のカラダが自分のものでない気になることもありますし
そういったもろもろのことを考えると自分のカラダは「わたし」が主であるという感覚は時に崩れることもあるのではないかと思います。
この論文はこの「わたし」感覚に関する短いエッセイになります。
このエッセイによるとこの「わたし」感覚は大きくは脳の中の二つの要素によるものではないかということが述べられています。
一つは前頭前野のある部分でこれはどんな動きをするかを選ぶところです。
例えば目の前のコップを手に取ろうとするようなときには、強く素早く手を伸ばすか、あるいはゆっくりじわじわと手を伸ばすかなどいろんな運動バリエーションが有ると思うのですが、その時その時で一番適切そうなものを一つ選ぶ、そういう働きがあります。
もうひとつは頭頂葉のある部分で、ここは前述の前頭前野の働きを監査しているようです。
初めてクルマを運転するときや初めてラケットを握るようなときは、果たしてどう体を動かせばよいか(これは見方を変えるとどの運動パターンを選べばよいか)わからずカラダがキョドることがあります。
頭頂葉のある部分は前頭前野のこのキョドり具合を見て、キョドり具合が少なければ少ないほど「わたし」がこのカラダを動かしているという主体者としての感覚を惹起するのではないかということが述べられています。
初めてファミコンのコントローラーを握った時や初めて教習所で車を運転した時には自分のカラダがもどかしくて自由にならないような気がしたのですが、こういったのはこのようなメカニズムが働いているせいかなと思いました。
脳科学的にネコはピアノを弾いている自覚を持てるか?
運動主体感という言葉があります。
これは私たちが自分で自分のカラダを動かしているという感覚なのですが
これはいつでもどこでもあるわけでもなく
統合失調症になると「だれかが私のカラダを動かしている」というような感覚を持つこともあるようですし
脳卒中になるとエイリアンハンドといって自分の手が自分の意志とは関係なく動いてしまうということもあります。
あるいは生まれたての赤ちゃんが自分の手足をバタバタ動かしているような時というのは、自分の明確な意志でもって動かしているというとなんだか怪しいような気がします。
こんなことから考えても運動主体感というのはいつでもどこでも絶対不変な感覚というわけではなさそうですが、こういった感覚は脳科学的にはどのようなものとして考えられているのでしょうか。
この論文はこの運動主体感に関するレビューになります。
From action intentions to action effects: how does the sense of agency come about?
この論文によると運動主体感というのは主に二つの脳領域によるものではないかということが述べられています。
具体的には
一つは運動の選択に関わる前頭葉(背外側前頭前野:ピアノで次にドを叩くか、レを叩くかという選択を行う)
もうひとつは前頭葉の働き具合をモニターする頭頂葉(角回:背外側前頭前野がきちんとスムーズに選択できているかというのをモニターする)
この二つが
前頭葉←(モニター)←頭頂葉
(背外側前頭前野)←(角回)
という連絡を作ることで
「今、ピアノを弾いている!」という自己感覚が生まれるのではないかということが述べられています。
表題の「ネコはピアノを弾いている自覚が持てるのか」というところですが
これにはやはりメロディとそれに伴う運動パターンを覚えるだけのアタマと、さらにその前提になる運動パターンを可能にする運動システムが必要ということを考えれば
やはりネコはピアノを弾いているという自覚は持てないのかなと思いました。
「皮質基底症候群における運動の意識変化と調整変化に関わる内側前頭-前頭前野ネットワーク」
脳卒中になると手足が麻痺するだけでなくいろんな症状が出てきます。
その中の一つにエイリアンハンドと呼ばれる症状があり、これは自分の意志とは関係なく自分の手が勝手に動いてしまうような症状を指すようですが、この論文はこの神経生理学的背景を探ったものです。
一般に運動というのはぐるぐるまわるループ構造になっています。
これは
手を伸ばせ(運動指令)→運動実行→手が届いた!(感覚フィードバック)
↑ ↓
← ← ← ← ← ← ← ←
となっていて自分で動いた結果がどうなったかという感覚が脳に戻ってきます。
脳の中にはこの運動指令と感覚フィードバックがドッキングするような部分があるのですが
この部分は自己意識と関係のある前頭前野と呼ばれる部分とつながっています。
つまり
運動指令
↓
前頭前野(自己意識)←ドッキング領域→運動実行
↑
感覚フィードバック
のような構造となっており
それゆえドッキング領域と前頭前野のあたりが傷つくとエイリアンハンドのような症状が出てくるのではないかといういことが述べられています。
「下頭頂葉への経頭蓋刺激は予期的な運動主体感を阻害する」
私たちは普段から自分のカラダは自分で動かしていると信じて疑いませんが、このような感覚はいったいどこからくるのでしょうか。
脳科学的な見地からこのような感覚の原因についていろいろ研究されているそうですが
一般的には脳の中のチェック機能がこのような感覚に関わっているのではということが言われていたそうです。
つまりピアノの演奏で言えば
運動イメージ(こんな音が出るだろう)→運動→音が発生
↓ ↓
感覚中枢(予定と結果を比較照合)← ← ←
↓
「思ったように音が出た!」
↓
「わたしがピアノを弾いている!」感の発生
ただこれが本当にどうかというとだいぶ怪しい気がしてきます。
だいいちピアノを弾いているときは一心不乱でいちいち出てくる音なんかチェックしているでしょうか。
おそらくは指を動かすそのさなか、感覚的なフィードバックなしに「わたし弾いている感」が立ち上がってくるのが実情ではないでしょうか。
こういった感覚的フィードバックなしに「わたし弾いている感」が立ち上がってくるメカニズムとしては
運動の選択(強く叩くか弱く叩くか)
↑
感覚中枢(スムーズに運動の選択がなされているかどうかをチェック)
↓
スムーズに運動の選択が選択されている!
↓
「わたしがピアノを弾いている!」感が立ち上がる
というものが考えられています。
この論文はこのへんのメカニズムを調べたものですが
TMS stimulation over the inferior parietal cortex disrupts prospective sense of agency.
「わたし弾いている感」のような感覚は後者のメカニズムによるものではないかということが述べられています。
まとめ
ワタシとはなにか、私がワタシの主体であるとはどういくことかというのは難しい問題だと思うのですが、それでも運動主体感に着目することで
いくらかこの謎について考える糸口は掴めそうな気がします。
どうやら頭頂葉のあたりが肝になっているようで、頭頂葉にかかる皮質下損傷で自己意識に関連する様々な高次脳機能が生じることとも関連しているのだろうなと思います。
また近年は
刺激→脳が感受→反応
という教科書的なモデルの見直しがなされており、
脳は常に一瞬先を予想しながら、現実が予想と違った場合修正をかけているというモデル
予想→現実の刺激感受→修正
がよりリアルに脳の働きを表しているのではないかということも論じられています。
自己意識、主体感についてはこのモデルのほうがよほど上図に脳の働きを解釈できるのではないかとも思います。
脳科学に関するリサーチ・コンサルティングを承っております。
子育てや家事、臨床業務で時間のない研究者の方、
マーケティングや製品開発に必要な脳科学に関する論文を探している方、
数万円からの価格で資料収集・レポート作成をいたします!
ご興味のある方は以下よりどうぞ!