目次
はじめに
人間は心優しい生き物である。子供を愛し、困っている人がいれば手を差し伸べ、互いに助け合って生きていくことが出来る愛すべき生き物である。しかし私達は残虐にもなりうる生き物である。過去数千年にわたり、私達は互いに私達を容赦なく抹殺してきた歴史を持っている。なぜ心優しいこの生き物が人間とは思えない行為をするのだろうか。今回の記事では、集団間の紛争について脳科学的な立場から考察した論文を元にこれを考えてみたい。
心理学的フレームワーク
戦争ではしばしば「正しい」こととして暴力行動が行われる。しかしどのような心の仕組みでこのようなことが行われるのだろうか。オーストラリアの社会神経心理学者、ラントス博士は、その論文の中で以下の枠組みを示している(Lantos & Molenberghs, 2021)
「正当化された」グループの暴力が起こるためには、まず相手に対する心理的な態度が変わる必要がある。すなわち攻撃に対する躊躇や共感といったものが低下する必要がある。
その前段階として、道徳的逸脱や非人間化、シャーデンフロイデというものが関わってくる。道徳的逸脱というのは、ズルをしてもいい、嘘を言ってもいい、というように道徳的なタガが外れることを指す。非人間化とは、相手のことを人間としてみなさなくなることを示す。シャーデンフロイデは相手の不幸に対して喜ばしい気持ちが湧いてくる心理を指す。これらの心理的変化があって、最終的に「正しく」攻撃する行動が引き起こされるのではないかと論じられている。
関連脳領域とその研究
では、上記のそれぞれの心理状態では脳の中ではどのような変化が起こっているのだろうか。以下に具体的な研究を簡単に紹介する。
道徳的逸脱
道徳的逸脱とは、正しいことをするために道徳から外れた行いをすることである。具体的には、正しいことをするために他人を傷つけたり、話を誇張したり、盗んだりすることをさすが、パンデミックや戦争のような自体では道徳的逸脱が起こることが報告されている(Lantos & Molenberghs, 2021)。
ハーバード大学の心理学者、チカラ教授は、個人と個人の争いが集団と集団の争いに変わったとき、脳の中で何が起こるかについて調べている。ある研究では単独対単独で競争課題をしているときと、集団対集団で競争課題をしている時の脳活動をfMRIを用いて調べている。すると集団対集団では、道徳的行動に対する脳の反応が弱まり、攻撃行動が増すことが示されている。具体的には、脳の中でも自己意識に関わる内側前頭前野の活動が低下しており、この低下傾向が大きい人ほど、集団対集団で躊躇なく攻撃することが示されている。このことから集団対集団における道徳的逸脱には、自己意識の低下が関係しているのではないかと論じられている(Cikara et al., 2013 )。
(Cikara et al., 2013 FIGURE 2)
非人間化
また集団対集団の争いにおいては、しばしば相手が人間として扱われなくなることがある。ある研究では、ホームレスや薬物中毒者を見ている時の脳活動を調べているが、あたかも物を見ている時のような脳活動が引き起こされていることが示されている。ホームレスや薬物中毒者以外の人物(高齢者、中流階級、富裕層)を見ている時には、自己意識に関連する内側前頭前野が活動しているのだが、ホームレスではそのような活動が見られないというのだ。このようなことから共感に耐えない社会的弱者は人間として認識される程度が低いのではないかと論じられている(Harris & Fiske, 2006)。
シャーデンフロイデ
シャーデンフロイデというのは、相手の不幸を喜ぶような感情である。他人の不幸は蜜の味といった言葉があるが、それを裏付けるような研究もいくつかある。ある研究では、仲間(推しのサッカーチームのサポーター)と部外者(推し以外のサッカーチームのサポーター)で共感反応がどのように違うかについて調べている。実験では、仲間、もしくは部外者が苦しんでいる様子を見ている時の脳活動を調べているのだが、他者が苦しんでいる時には喜びに関わる脳領域(側坐核)の活動が増加し、共感に関わる脳領域(前部島皮質)の活動が低下することが示されている。またその傾向は部外者を他所者として感じる傾向が強いほど大きいことも示されている。このことから排他的な性格のものは、部外者の苦しみを喜びと感じる脳の仕組みがあるのではないかと論じられている(Hein et al., 2010)。
”正当化された”グループ間の衝突
戦争では敵を殺害することが求められ、それが正しいこととされるが、民間人を殺害するときとではどのような脳活動の違いがあるのだろうか。ある研究では民間人を撃つときと兵士を銃で撃つときでの脳活動の違いを調べている。結果として、兵士を射撃する時には民間人を射撃するときよりも罪悪感が少なく、外側前頭眼窩野の活動も低下することが示されている(Molenberghs et al., 2014 )。
前頭眼窩野は価値判断に関わって活動するが、内側と外側でその反応が異なる。内側前頭眼窩野は何かをすることで得られるポジティブな価値(称賛や誇りなど)に反応するが、外側前頭眼窩野はネガティブな価値(非難や罪など)に反応することが知られている(Molenberghs et al., 2014 )。兵士を射撃する時には外側前頭眼窩野の活動が低下したが、これは正当化された暴力を行う時には非難や罪などの感覚が低下することと関連するのではないかと論じられている(Molenberghs et al., 2014 )
まとめ
このように戦争で見られるような「正当化された」攻撃行動では様々な脳活動の変化が関係していることが示されている。
具体的には道徳的逸脱傾向が高まり、相手を人間と思う気持ちも少なくなり、相手の不幸に喜びを感じ、相手を害することに罪を感じにくくなる。このような傾向が生まれ持った人間の性向であるとしたら、私達はどうしたらいいのだろうか。人間が生まれながら持つ狂気は直すことができないにしても、自らが持つ狂気を自覚すれば、その暴走を最低限に食い留めることが出来るかもしれない。
己が抱えて離すことのできない狂気を見つめることが平和への第一歩なのかもしれない。
【参考文献】
Cikara, M., Jenkins, A. C., Dufour, N., & Saxe, R. (2014). Reduced self-referential neural response during intergroup competition predicts competitor harm. NeuroImage, 96, 36-43. https://doi.org/10.1016/j.neuroimage.2014.03.080
Fettes, P., Schulze, L., & Downar, J. (2017). Cortico-striatal-thalamic loop circuits of the orbitofrontal cortex: promising therapeutic targets in psychiatric illness. Frontiers in systems neuroscience, 11, 25. https://psycnet.apa.org/doi/10.3389/fnsys.2017.00025
Harris, L. T., & Fiske, S. T. (2006). Dehumanizing the lowest of the low: Neuroimaging responses to extreme out-groups. Psychological science, 17(10), 847-853. https://doi.org/10.1111/j.1467-9280.2006.01793.x
Hein, G., Silani, G., Preuschoff, K., Batson, C. D., & Singer, T. (2010). Neural responses to ingroup and outgroup members’ suffering predict individual differences in costly helping. Neuron, 68(1), 149-160. https://doi.org/10.1016/j.neuron.2010.09.003
Lantos, D., & Molenberghs, P. (2021). The neuroscience of intergroup threat and violence. Neuroscience and biobehavioral reviews, 131, 77–87. https://doi.org/10.1016/j.neubiorev.2021.09.025
Molenberghs, P., Ogilvie, C., Louis, W. R., Decety, J., Bagnall, J., & Bain, P. G. (2015). The neural correlates of justified and unjustified killing: an fMRI study. Social Cognitive and Affective Neuroscience, 10(10), 1397-1404. https://doi.org/10.1093/scan/nsv027