笑いの力 – 体に起こる驚きの変化
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はじめに

電車で隣に座った人がスマホで動画を見ている。突然その人が「プッ」と吹き出し、慌てて口を押さえた。こちらまでつられて笑いそうになる。笑いには確かに人から人へと伝わる不思議な力がある。

「笑う門には福来る」という言葉があるが、これは単なる気休めなのだろうか。最近の研究では、笑いがホルモンや血管、免疫システムにまで影響を与えることが分かってきている。普段何気なくしている「笑い」が、実は全身に広がる複雑なメカニズムであることを、最新の研究結果をもとに探っていこう。

笑いが痛みを消し去る仕組み

笑った後の妙な爽快感の正体は、脳内で放出されるエンドルフィンにある。このエンドルフィンは「脳内モルヒネ」とも呼ばれる物質で、強力な痛みを和らげる効果を持っている。実際にお笑い動画を見て大笑いした被験者は、氷水に腕を浸す実験で40%も長く耐えることができたという報告がある。PET検査を使った研究では、笑いの直後に脳の報酬中枢でエンドルフィンが放出されることが確認されており、この現象は科学的に証明されている事実なのだ。

さらに興味深いのは、一人で笑うよりも誰かと一緒に笑う方が、より多くのエンドルフィンが放出されるという発見だ。仲間と笑いを共有するだけで、痛みを和らげる効果が格段に強くなる。この現象は人間だけに限らない。ラットをくすぐると超音波の笑い声を上げるが、オピオイド(脳内麻薬の一種)の働きを阻害する薬を与えると鳴き声は消える。笑いと快感の回路は哺乳類に広く共通した古いシステムなのである。

最近の研究では、「ランナーズハイ」を生み出すアナンダミドという物質も、笑いの後に血中で増加することが分かった。複数の快感回路が同時に働くことで、笑いの効果はさらに強化される。面白いことに、「これは最高に面白い映像です」と予告されただけで痛みが和らぐ効果も報告されている。笑いは脳の期待システムまで巻き込んで、痛みの感じ方そのものを変えてしまうのだ。

ただし、表面的な笑いでは効果は限定的である。本当に楽しいと感じる笑いでなければ、エンドルフィンはあまり放出されない。脳は作り笑いを見抜いてしまうらしく、心からの笑いだけが体に変化をもたらす。では、このエンドルフィンをはじめとする笑いの効果は、痛みだけでなく体全体にどのような変化をもたらすのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全身を駆け巡る笑いの波

大笑いは意外とハードな運動である。横隔膜がリズムよく上下し、一回の呼吸量は平常時の約2倍になる。酸素がたくさん入り、血中の二酸化炭素が効率よく排出される。この呼吸の変化だけでも、体は大きく変わり始める。血管への影響も顕著で、笑いの直後には一時的に血圧が上がるが、その後血管が拡張し、血流が劇的に改善する。上腕動脈の柔軟性を測る検査では、笑いの後に17%の改善が見られた一方で、シリアスな映像を見た場合は15%悪化した。笑うことで自律神経のバランスが整い、血管を広げる一酸化窒素が増加するためと考えられている。

この血流改善の効果は、意外なところにも現れる。笑いを誘う落語を30分聞いただけで、血糖値がわずかに下がったのだ。自律神経の変化がインスリンの働きを良くしたと考えられる。さらに注目すべきは免疫システムへの影響だ。ユーモア番組を1時間見ただけで、唾液中のIgA(粘膜を守る抗体)が30%以上増加し、NK細胞(がん細胞を攻撃するリンパ球)の活性も翌朝まで高まったという研究がある。同時にストレスホルモンのコルチゾールは10%ほど減少し、体の緊張がほぐれる。

腸内環境への影響も見逃せない。笑いヨガを週2回続けた中高年では、ビフィズス菌が増えたという小規模な研究がある。腸の調子が良くなると気分を安定させるセロトニンの材料が増え、さらに気分が良くなるという好循環が生まれる可能性がある。このように笑いは、呼吸から血流、免疫、ホルモン、腸内環境まで、文字通り全身に影響を与える。しかし、これらの変化を統括しているのは脳である。笑いが脳でどのように処理され、なぜこれほど強力な効果を生み出すのかを見てみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

脳が織りなす笑いの交響曲

ジョークのオチを理解した瞬間、脳では驚くほど複雑で精密な反応が起こっている。fMRIという装置で調べると、まず側頭頭頂接合部が「分かった!」と反応し、すぐに腹側線条体がドーパミンを放出する。理解から快感、そして笑いの表情まで、わずか1秒以内に連鎖反応が起こる。この高速処理が、先ほど見てきたエンドルフィンの放出や血管の変化など、全身への影響を引き起こしているのだ。

しかし、この精密な回路に問題が生じると、笑いは症状になってしまう。前頭葉が傷つくと止まらない駄洒落を言い続ける「冗談病」が現れたり、視床下部の腫瘍では理由もなく笑い続ける発作が起こったりする。脳幹の損傷では、泣き笑いをコントロールできなくなることもある。これらの症例は、逆説的に笑いがいかに複雑な脳のネットワークに支えられているかを教えてくれる。

一方で、この複雑さを逆手に取って、笑いを治療に活用する試みも進んでいる。パーキンソン病患者にコメディを見せるプログラムでは、歩行速度と表情筋の動きがわずかに改善した。また、認知症ケア施設に道化師が常駐することで、入居者の問題行動が減ったという報告もある。脳の柔軟性は、ユーモアという優しい刺激にも反応するのだ。

興味深い症例として、うつ病治療のために脳に電極を埋め込んだ患者の例がある。電気刺激のスイッチを入れるたびに制御できない笑いが生じ、同時に気分も改善したという。電流が偶然ユーモア回路を刺激したらしい。これは、笑いと気分、そして全身への影響がすべて一つのシステムとして繋がっていることを示している。

笑いが描く生命の設計図

電車で隣の人が見せた小さな笑いから、こんなにも多くのことが分かってくる。あの「プッ」という一瞬の笑いは、その人の脳でドーパミンとエンドルフィンを放出させ、血管を広げ、免疫力を高め、ストレスホルモンを減らしていたのだ。そしてその笑いは空気を伝わって、私にも同じような変化を起こそうとしていた。

笑いは単なる感情の表現ではなく、脳から始まって全身を巻き込む統合されたシステムなのである。エンドルフィンが痛みを和らげ、血管が広がって血流が良くなり、免疫力が高まる。脳では快感回路が活性化し、ストレスホルモンが減少する。これらの変化は数値で測定できる、確かな生理学的効果である。

もちろん笑いが万能薬というわけではない。しかし、私たちが何気なく日常で経験している小さな笑いが、これほど精巧で全身に及ぶメカニズムを動かしているということは驚きに値する。笑いが万能薬かどうかはわからない。しかし私達の人生を救ってくれるなにかであることは確かだろう。健やかなるときも病めるときも、笑いとともに生きていきたい。

参考文献

Berk, L. S., Felten, D. L., Tan, S. A., et al. (2001). Modulation of neuroimmune parameters during the eustress of humor‑associated mirthful laughter. Alternative Therapies in Health and Medicine, 7(2), 62–76. https://doi.org/10.1016/S1078-6791(17)30117-2

Manninen, S., Tuominen, L., Dunbar, R. I. M., et al. (2017). Social laughter triggers endogenous opioid release in humans. Journal of Neuroscience, 37(25), 6125–6131. https://doi.org/10.1523/JNEUROSCI.0688-16.2017

Sugawara, J., Tarumi, T., & Tanaka, H. (2010). Effect of mirthful laughter on vascular function. American Journal of Cardiology, 106(6), 856–859. https://doi.org/10.1016/j.amjcard.2010.05.011

Yim, J. (2016). Therapeutic benefits of laughter in mental health: A theoretical review. Tohoku Journal of Experimental Medicine, 239(3), 243–249. https://doi.org/10.1620/tjem.239.243

Shammi, P., & Stuss, D. T. (1999). Humour appreciation: A role of the right frontal lobe. Brain, 122(4), 657–666. https://doi.org/10.1093/brain/122.4.657

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