ネガティブ・ケイパビリティの脳科学:能動的推論から考える
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はじめに

 ネガティブ・ケイパビリティという言葉がある。これは先が見えない時に、慌てず騒がず静かに問題と向き合う能力のことである。例えば先のパンデミックを思い出してみよう。ウイルスの正体もはっきりしないし、収束時期も分からない。ネガティブ・ケイパビリティとは、このような時にも、グッと静かに踏みとどまる能力である。また先行き不明な状況はパンデミックだけではない。子供の不登校や家族の病気、配偶者の不倫など予想していなかった出来事は色々と起こりうる。このような時でも、パニックになることなく、静かにそっとその状況に身をおく能力である。何もしないというわけではない。分からないことは分からないと認めた上で、その状況を引き受ける能力、それがネガティブ・ケイパビリティである。この心持ちを、精神分析医ビオンは、「記憶もなく、欲望もなく、理解もない」状態と述べている。この状態は具体的にはどのようなものなのだろうか。今回の記事では能動的推論というものを足がかりに考えてみたい。

能動的推論とは?

 私達の脳は一日中予測し続けるマシンである。最近ではジェネレーティブAIが話題であるが、人間の脳も負けず劣らず、確率論的にありそうな事象を予測する。例えば、ベートーベンの「運命」を思い出してみよう。「ダダダ」まで聞こえると、脳はその後の、「ダーン!」まで無意識のうちに予測する。あるいは、花の周りでひらひらと飛ぶものがあれば、無意識のうちに蝶だと予測しながら目を向ける。このように私達の脳は僅かな情報を手がかりに、決め打ち的に予測しながら見聞きする。聞き間違えや見間違えが起こるのも、脳が予測ありきで動いているからである。能動的推論とは、わたしたちの認識が、経験の裏付けによる予測で行われていることを指す。では、この予測はどのようにして作られるのだろうか。

確率分布と予測的符号化

 世の中には確率分布というものがある。これは、どのようなことがどれくらいの確率でありうるかを示すようなものがある。例えば宝くじを考えてみよう。もし小さな子供に宝くじを渡して、「これで100万円あたるかもしれない」と伝えれば、その子はこんな確率分布でものを考えるかもしれない。

ところが1回失望し、2回失望し、3回失望すると、その子も徐々に学習し、期待値の確率分布は以下のように変化していくかもしれない。

【2回失望】

【10回失望】

このように私達の脳は予測をするが、その予測モデルは経験を重ねるに連れて磨き込まれていく。本を読む人であればパラパラとめくっていても勘所が分かるようになるし、営業をする人であれば、勝負の賭けどころを見極められるようになる。経営者であれば適切な次の一手を打てるようになるだろう。しかしである。この予測モデルは絶対普遍的なものではない。なぜなら現実は常に変化するからである。今日の常識が明日の常識であるとは限らない。パンデミックのようなことが起これば常識は一変し、今まで役立っていた予測モデルは役に立たなくなってしまう。 

ネガティブ・ケイパビリティの確率分布

 ビオンはネガティブ・ケイパビリティを、「記憶もなく、欲望もなく、理解もない」状態だと述べている。これは確率分布ではどのように考えることができるだろうか。先に述べたように期待値の確率分布は経験を重ねることで変化する。例えばあなたが新入職員だった頃を考えてみよう。最初は見るもの聴くものすべてが初めてなので何が起こるかわからない。つまり確率分布で言えば裾野が広く頂点が低いような状態である。ところが経験を重ね、理解と記憶が深められていくと、この曲線はシャープになる。次に何が起こるかが高い精度で予測できるようになるので、新入社員のときと比べて無駄が省けてスマートに動くことができるようになる。

また、この確率分布は欲望によっても変化する。例えば過度の不安や期待は確率分布を歪ませることが分かっている(Fristonら、2014年)。このように私達は経験を通じて学習し、成長していくが、この変化には落とし穴もある。パンデミックのようにゲームのルールが一気に変わってしまうような状況では、かえって認識を誤ってしまうことがあるからだ。先行き不透明な状況では、あらゆる可能性を吟味して柔軟に対応していく能力が必要になる。そこで求められる予測モデルは決して尖ったものではない。むしろ、記憶や理解や欲望にバイアスづけられていないフラットなものである。その意味でネガティブ・ケイパビリティは予測モデルを初期化する能力といえるかもしれない。一度予測モデルをまっさらな状態に戻すことで、より正しく状況を捉え、より正しい方向へ変化していくことができる。

ネガティブ・ケイパビリティの鍛え方

 ネガティブ・ケイパビリティは安易な解決策に飛びつかない能力である。そう考えると「ネガティブ・ケイパビリティの鍛え方」というのは自己矛盾のような気もするが、興味のある方もいるとは思うので取り上げてみよう。いくつかの文献で触れられているのはマインドフルネス瞑想である(Todd2015年)。やったことがある人なら分かると思うが、瞑想をした後には気づきの能力が高まる印象がある。今まで気づかなかった視界の裾にあるような情報にも自然と気がつくようになるのだ。これを裏付けるかのようにマインドフルネス瞑想では、気付きに関わる脳内ネットワークの活動が高まるとも報告されている(Dollら、2015年)。

またもう一つの方法は、映画や絵画、哲学書に親しむことだとも言われている。映画や絵画などの芸術には答えがあるわけではない。特に現代アートのようなものを見る時には、自分の思い込みを一度全部捨てて作品と向き合うようなことが求められる。経営者には現代アートの愛好家も多いが、ネガティブ・ケイパビリティを鍛え直す意味では向いているのかもしれない。さらに先日お話させていただいたある経営者は、先行きが見えない状況ではゼロベースで考えることが大事だとも言っていた。惰性で生きること無く、一日一日を生まれて初めて生きるかのように生きてみるのも良い訓練になるかもしれない。

まとめ

 では、ここまでの内容をまとめてみよう。

 

・ネガティブ・ケイパビリティとは、先行き不透明な状況で、静かにそこに留まる能力である。

・私達の脳は予測モデルを使って世界を認識している。

・ネガティブ・ケイパビリティは予測モデルを初期化する能力である。

・芸術や哲学、瞑想でネガティブ・ケイパビリティを強化できる。

 

ネガティブ・ケイパビリティの定義は様々だが、その中の一つに降参する能力というものもある。これはコントロールできないものはコントロールできないと認める態度ともいえる。これを読んでいるあなたがどのような状況にあるのかは知らない。しかしネガティブ・ケイパビリティが必要な場面にいるとしたら、それは喜ばしいことだと思う。今までの自分を捨てて生き直すことができるチャンスだからだ。悩み抜いた末に大地にキスをした「罪と罰」の主人公でもないが、降参するところから始まる物語もある。その人生を十分に生き抜いてほしい。

 

【参考文献】

Doll, A., Hölzel, B. K., Boucard, C. C., Wohlschläger, A. M., & Sorg, C. (2015). Mindfulness is associated with intrinsic functional connectivity between default mode and salience networks. Frontiers in human neuroscience, 9, 461. https://doi.org/10.3389/fnhum.2015.00461

 

Friston, K., Schwartenbeck, P., FitzGerald, T., Moutoussis, M., Behrens, T., & Dolan, R. J. (2014). The anatomy of choice: dopamine and decision-making. Philosophical transactions of the Royal Society of London. Series B, Biological sciences, 369(1655), 20130481. https://doi.org/10.1098/rstb.2013.0481

 

Todd, S. (2015). Experiencing change, encountering the unknown: An education in ‘negative capability’in light of Buddhism and Levinas. Journal of Philosophy of Education, 49(2), 240-254. https://doi.org/10.1111/1467-9752.12139

 

乾敏郎、阪口豊 ()2020).脳の大統一理論: 自由エネルギー原理とはなにか 岩波書店

 

枝廣淳子(著)(2023).答えを急がない勇気 ネガティブ・ケイパビリティのススメ イースト・プレス

 

谷川嘉浩、朱喜哲、杉谷和哉 ()2023).ネガティブ・ケイパビリティで生きる さくら舎

 

帚木蓬生(著)(2017).ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 朝日新聞出版

 

 

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