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リーチ訓練の本質とバーチャルリアリティへの応用
“Learning by head, hand and heart”
「頭と手と心でなされるもの、それが学びである」
(ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ、教育改革者)
先日「mediVR神楽」によるデモを見させていただいた。
https://www.facebook.com/sinkeikagaku/posts/3540846172650218
前述の記事で記したように「神楽」によるリーチ訓練の前後で失調症状の軽減が見られたが、なぜこのようなことが起こるのだろうか。
まずリーチとはなにかという観点に立って考えてみよう。
リーチ動作と「神楽」における報酬設計
リーチというのはなにかに向かって手を伸ばす行為である。目を向け、頸を向け、バランスを取りながら対象物へ向かって身体を近づけ手を伸ばす行為である。
引用:脳血管の治療を考える作業療法士のブログ「シリーズ肩甲骨~リーチ動作時の筋活動~」
しかしこのリーチ動作というのは簡単ではない。
なぜなら伸ばす対象によって手の形を変える必要があるからだ。例えばミカンに手を伸ばすときとティーカップに手を伸ばすときを考えてみよう。手の開き具合も肘の回し具合も違ってくるだろう。
それだけではない。取るべきものが一緒でも、それがどこに置かれてあるかでまた違ってくる。
木の上になっているミカンを取るのと、こたつの上のミカンを取るのでは同じミカンでも体の使い方が全く違ってくるだろう。
引用:
(左)暮らしーの 「みかんの木の剪定方法!時期や手順・美味しくなるコツと注意点をご紹介!」
(右)1000 nensha monthly 「コタツでも楽しめる! 冬のあたらしい過ごし方」
このようにリーチ動作には「何をするのか(What)」ということと「どうやってするのか(How)」ということの2つが絡んでくるのだが、これは脳の中ではどのように処理されているのだろうか。
以下の図は動作の意思決定に関する情報処理を示した概念図だが
Cisek and Kalaska(2010)を参考に筆者作成
脳の中でも大脳基底核が「何をするのか(What?)」に関わる経路と「どうやってするのか(How?)」に関わる経路との仲立ちをしていることがわかる。
さらにこの大脳基底核は前頭前野とつながって報酬情報を受け取っている。
つまり、なにかにリーチするときには「何をするのか(What)」と「どうやってやるのか(How)」という2つの意思決定をしなければいけないが、
大脳基底核がその2つをうまく調整しており、
さらに大脳基底核は前頭前野から送られてくる報酬情報によってドライブされているという仕組みになっている。
こういった仕組みを考えれば、患者にいかに報酬を与えるかというのが運動学習で大事なのが分かると思うが、「神楽」はその報酬設計がうまく出来ている。
具体的には「神楽」で患者に示される報酬フィードバックは視覚的も聴覚的にもアミューズメント色が強いものである。
パチンコやスロットといったものと比べるのは気が引けるが、印象としてはそれくらいエキサイティングなフィードバックを提供できるのが神楽の特徴である。
加えて「神楽」では手に持ったコントローラーからもバイブレーション機能によって触覚刺激が与えられている。五感のうち、視覚、聴覚、触覚による多感覚フィードバックを与えているということになる。
「神楽」による訓練では、基底核への刺激も十分になされているのではないかと推察する。
「神楽」における課題の難易度設定
また「神楽」は難易度の設定もうまく出来ている。
上の図で見てもらえばわかるようにリーチ動作というのは前頭前野を介した認知的な課題でもある。
脳血管障害や加齢による認知機能の低下を考えた場合、訓練室で行われるようなリーチ訓練は必ずしも妥当とは言えない。
なぜなら訓練室というのは他の患者の訓練や訓練器具など視覚情報処理で競合するような視覚刺激が非常に多い空間であり、
場合によっては患者の認知負荷が高くなりすぎて潜在的な運動能力を十分に引き出せない可能性がある。
また比較的認知能力の高い患者に対しては、輪投げやお手玉を使った単調な訓練は認知負荷としては軽すぎてしまうことも臨床現場ではよくあることである。
「神楽」はバーチャルリアリティ設定の強みを活かして、難しすぎず簡単すぎずという調整が細かくできるように設計されている。
具体的には背景画像設定やリーチ対象の大きさ、移動速度などを細かく調整することで患者の認知負荷を最適化することができる。
こういった細かい調整ができることで、患者は常に最適にチャレンジングな認知負荷でリーチ訓練を行うことができる。それゆえ短時間の訓練であっても汗びっしょりとなり、訓練後の機能変化も大きくなるのではないかと推察する。
リーチ動作における前庭感覚と「神楽」の設計
リーチ動作を考える上でもう一つ大事なのが前庭感覚であろう。
私達は自分の体が移動しているのを感じることができる。
車が発進したり止まったり、あるいはメリーゴーランドでぐるぐる回る感覚を感じることができるが、こういった感覚は耳の奥にある器官、前庭によるものである。
引用:wikipedia “Inner ear”
私達はブランコに乗った少年のように、複雑なバランス反応を取ることができるが、これは耳の中にある前庭が脳の中の様々な領域と連絡することで可能になっている。
しかしこの前庭感覚はどのようにリーチ動作の調整に関わっているのだろうか。
一般にリーチ動作は眼の動きと手の動きを協調させる必要があり、大脳皮質のレベルでは頭頂間溝がその役割を担っていることが知られている(図中mIPS)。
引用:Eye-head-hand coordination during visually guided reaches in head-unrestrained macaques
この眼と手の協調を図る頭頂間溝であるが、これは前庭感覚とはどのような関係にあるのだろうか。
ある研究では、被験者を回転椅子に座らせ、左右に回転刺激を加えながら対象物へリーチさせる課題を行っているのだが、
こういった設定で頭頂間溝に特殊な磁気刺激を加えた場合、リーチの軌道がより強く歪んでしまうことが示されている。
こういったことから頭頂間溝は眼と手の協調に関わるだけではなく前庭情報をも取り込んでリーチ動作を制御しているのではないかということが考えられている。
http://noukagaku.site/zenteiips/
また解剖学的研究でも前庭感覚と頭頂間溝の関係が明らかにされている。
ある研究ではサルの神経線維を染色して頭頂間溝に至る様々な神経線維を調べているのだが、前庭感覚がリーチ運動領域である頭頂間溝に密に流れ込んでいることが報告されている。
http://noukagaku.site/zentei-ri-chi/
このように頭頂間溝には直線加速度や回転速度といった前庭からの感覚情報も流れ込んでおり、
リーチ動作がうまくいくためには視覚や体性感覚だけでなく、前庭感覚も大事なのが分かる。
「神楽」はこの前庭感覚に対するアプローチという面でも優れている。
「神楽」では、最初に患者の最大リーチ範囲を図って、それをオーダーメイド的に運動プログラムに取り込んでいる。このことによって様々なレベルの患者から最大限ダイナミックな運動を引き出すことに成功している。
10分間で汗びっしょりになる「神楽」であるが、これは「神楽」のダイナミックな課題設定によって前庭感覚への刺激が十分に与えられているためではないだろうか。
しかしながらなぜ「神楽」が小脳における失調症状を改善しうるのだろうか。この点については次回、臨床学的観点と解剖学的観点から考察を行う。
【参考文献】